宮本武蔵の実像

2014.03.29 Saturday

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歴史モノを書くと長くなる癖があるので、
今回は簡単明瞭に短く書いていきたい!と考えながら書く。
その第一弾が「宮本武蔵」。

先日も木村拓也主演でTV放映されたばかりなので、
実在した宮本武蔵を書いていくと、かなりのバッシングを受けるのは必定!と思うけれど、
吉川英治氏が書いた読み物としての「宮本武蔵像」が実在の人物像と思われている昨今。
僕はあえて「宮本武蔵の実像」に迫ってみたいと思う。

【姓名】
そもそも「宮本武蔵」と言う名前だが、播磨国宮本村から採ったと言われているけれども、彼自身は「自分は、武士である!」と最後まで拘っているのはなぜだろう?。
武蔵の父親は「平田無二斎」と伝えられていて、彼は竹山城主である新免氏から新免姓を名乗ることを許されたらしく、「新免無二斎」とも名乗っていたらしい。その「平田無二斎」が武蔵の本当の父親であったのか?は不明だが、武蔵は自分の都合(武士である!)によって「新免武蔵」と名乗った形跡はあるが、自分の父親の姓である「平田武蔵」と名乗った形跡は無い。
つまり、彼の言う父親が本当に「平田無二斎」であるのであれば、わざわざ「宮本村の武蔵=宮本武蔵」と名乗る必要はないはずで、彼が書いたと言われる「五輪書」に記載されている「生国播磨の武士」であるならば、「平田武蔵」で良かったはずである。にも関わらず、「宮本武蔵」と名乗ったのは、実は「生国播磨の武士」ではなく、「生国播磨宮本村の百姓」にほかならない。なぜなら、当時の剣豪と言われる方々で、あえて「武士である!」と書き残し、あくまでも「武士に拘っていた」のは「宮本武蔵」しかいないからだ。

ざっくり、TVドラマの様に「強けりゃぁいいじゃん!」とスガスガしく言えないところが、
実像の宮本武蔵なのだ。

【吉岡清十郎との決闘】
元室町幕府将軍家剣法指南役であった吉岡道場の当主・吉岡清十郎との決闘だが、
決闘をした!、勝った!と記載しているのは、宮本武蔵側だけと言う事をご存知だろうか?。
そもそも、室町幕府将軍家剣法指南役であった吉岡道場が元将軍家剣法指南役であったとは言え、
無名の宮本武蔵と戦うこと自体が、当時の社会でも通用したのがはなはだ疑問である。
と言うのは、豊臣秀吉の時代も江戸幕府時代同様、真剣勝負をする時は役所(奉行所)に届出を申請し、許可を得てからの果し合いになる為、名門吉岡家と無名の武蔵の真剣勝負に許可が下りたとは思えない。
なぜなら、許可が下りていれば「正式に記録される」ので、吉岡側の言い分も歴史に残るはずである。

また、小説・宮本武蔵では、吉岡清十郎は、武蔵に倒され、蘇生したが不具者になったとか、
吉岡清十郎は、武蔵に切られて死んだ!ことになっているが、
そもそも、、死んだはずの吉岡清十郎は、武蔵との試合の数十年後、吉岡一門を率いて大阪冬の陣に豊臣方として出陣しているのである。大阪(豊臣)方が負け、吉岡一門は恩賞にありつけなかったのであろう、、その後、吉岡家は、剣を捨て、染物屋として江戸時代に至る。


【一乗寺決闘】
小説では、宮本武蔵は、吉岡清十郎との決闘の後、吉岡伝七郎、又七郎との一乗寺の決闘となっている。
これも武蔵に倒され、死んだはずの吉岡伝七郎と又七郎は、数十年後、吉岡清十郎と共に大阪冬の陣に出陣しているので詳しい事は割愛するが、そもそも「吉岡一門70数名の徒党を組んでの戦い」は、役所(奉行所)に届出をしなければ「反逆罪」とみなされて「打ち首獄門」が当時の法律だったにも関わらず、地位と名誉を有している吉岡一門が、たった1人の無名の宮本武蔵ごときに法律に反して徒党を組んで戦うわけがない。
そもそも、この一乗寺の決闘も「宮本武蔵側の言い分のみ」で歴史的記録などは一切ないのが現実である。

【女性関係】
宮本武蔵は、お通を愛し、剣の道ゆえに「一生独身」だったらしい。
が、、、現実の宮本武蔵は、江戸の吉原、、つまり、現代のソープランド街で毎日をセックス三昧という乱れた生活を送っているのだ。これは吉原の創始者である庄司甚右衛門の孫が書いた日記(書物)の中に記載されている。
それも一級の花魁ではなく、三流、四流の女郎だったらしい(名前は「雲井」と言う女性)。
宮本武蔵による、この吉原でのセックス三昧の時期は、寛永15年(1638年)の事らしいので、武蔵の年齢から行くと初老の年代に入っているのに、この乱行である。若い頃は記録に載っていないが、想像するに、、、である。
また、島原の乱が勃発すると、武蔵は黒田家の見回り役として出陣する事になったようで、雲井に暇乞いをする為に揚屋甚三郎の許へ通い、数日、雲井とラブラブしていたとの記述がされている。

小説・宮本武蔵では考えられない様な行動をとっているが、
実際の宮本武蔵の方が人間的で面白いと思ってしまうのは僕だけでしょうか?。
まぁ、宮本武蔵の「独行道」に記載されている項目は、
察するに、自分が守れないルールばかりを記載したんだろうなぁ、、と思ってしまう。

ざっくり、宮本武蔵の弟子は、吉原同様、遊郭を営んでいる商人が多く、
武蔵はよく弟子が経営する遊郭に入り浸っていたらしい。
遊郭が先か?、弟子入りした弟子が「たまたま遊郭の経営者」だったのか?は不明だが、
その様な商人の弟子を多く持っていたという事実は、彼の剣の実力を物語っているのではないだろうか?。
そもそも、著名な流派では、その様な弟子は受け入れなかったはず。
が、ドケチで有名な武蔵の事。実利を優先し、セックスにお金をかけたくなかったから、その様な商人ばかりの弟子を取ったのであろうか?。

【武蔵の実力】
宮本武蔵は、肥後国細川藩に召抱えられているが「客分として300俵」だった。
当時、剣の実力は「その存在の貴重度」をさしているのだが、300俵はあまりにも少ない。
細川藩(52万石)の存在価値からみると、平社員程度の給与と同等なのである。

武蔵が言う「俺は日本一の剣客」が本当であれば、せめて1,000石か?、3,000石はもらっていないと「日本一の剣客」どころか、「人並みの剣客」である。
本当に名門吉岡一門、佐々木小次郎を倒したのが事実であれば、300俵は有り得ない給与だ。
例えば、同じ世代の剣客として、
・柳生但馬守宗矩(柳生新陰流)=11,500石
・富田越後(中条流/富田流)=11,000石
・上泉主水(新陰流)=3,000石
・小野忠明(小野派一刀流)=800石
・木村助九郎(柳生新陰流)=500石
・宮本武蔵(円明流)=300俵(150石)
(石と俵の違いは、「石」はモミを取ったコメの報酬額。「俵」はモミがついたままのコメの報酬額なので、俵を石で表現すれば実質半分となる。従って、宮本武蔵の報酬額300俵、つまり150石になる)

上泉主水や木村助九郎などを知っている人は少ないと思うけれど、
その歴史的に有名ではない方々でさえ、宮本武蔵の倍以上で雇われているのである。

つまり、剣客にとっては現代のプロスポーツと同様に、金メダルもしくはチャンピオンになれば報酬が違うように、世間の人々が認めていれば、それだけの高額な報酬を手にすることができた時代。
宮本武蔵は「300俵(150石)」それだけの価値しかなかった剣客だったのだろう。
従って、宮本武蔵、彼自身が思っているよりは、彼は、ずっとランクの低い剣客だったことになる。

【巌流・佐々木小次郎】
小説・宮本武蔵のハイライトである佐々木小次郎との決闘。
TVでは、毎度のこと、佐々木小次郎は「長身でハンサムチックな演出」をされているけれど、実際はどうだったのか?。実は佐々木小次郎自体が実在した人物なのか?、否か?なのである。
ただ、記録には免許状に記載されていた「中条流 富田入道勢源門流 後学鐘捲自斎」とあるので実在したとすれば、、宮本武蔵と戦った時の佐々木小次郎の年齢は、65〜70歳前後になる。
と言うのは、佐々木小次郎の師匠である「鐘捲自斎」の弟子の中に、一刀流の開祖「伊藤一刀斎」がおり、その弟子である小野次郎右衛門忠明の年齢は、既に初老に入っている時期である。
つまり、佐々木小次郎が宮本武蔵と決闘をした時期、小次郎の兄弟子である伊藤一刀斎は随分と前に他界しており、また、伊藤一刀斎の弟子である小野次郎右衛門忠明は、宮本武蔵よりも10歳前後年上であった。

つまり、小説・宮本武蔵のハイライトである「巌流島の決闘」が本当にあったならば、
剣客として腕力がみなぎる30歳前半の「宮本武蔵」と、60歳まで生きるのは稀な時代に70歳前後の老人「佐々木小次郎」との勝負だったわけだ。
これでは宮本武蔵が負ける方に無理がある。
宮本武蔵が勝って当然の勝負なのに、実際、そんな勝負を実際にさせるだろうか?。

宮本武蔵自身が書いたとされる「五輪書」には、
彼が過去に真剣勝負したとされる無名の剣客との勝負は幾つか記載されているにも関わらず、
この「巌流島の決闘」や「佐々木小次郎との決闘」に関しては、一切書かれていない。

「巌流島の決闘」は、弟子たちや数百年も経った後に「二天記」として弟子や関係者が編纂した物語に過ぎない。
つまり、この決闘も、吉岡一門の決闘と同様に架空の決闘であったわけである。

【最後に】
小説・宮本武蔵は、一生、独身だったと書かれている。
女郎遊びは別として、武蔵は、一生、結婚をしなかったとされている。

熊本には、「武蔵塚」と呼ばれている塚が「2つ」あり、
東の塚は誰もが参拝する塚らしい。
が、、、西の塚(墓)には、、、
墓石(自然石)に武蔵の戒名である「貞岳玄信居士」。
その横に並んで、「心月清円信女」という女性の墓石があるらしい。
(僕自身、確認に行っていないので参考資料より抜粋)

昔から明治維新後くらいまでは、夫婦の墓石は現代の様に同じ墓石ではなく、
並んで建てるのが通常であったから、これはどうみても武蔵の奥さんのお墓だ。
としか解釈ができない。

宮本武蔵、、、、
「恋慕の心なし!」と記載しておきながら、奥さんがいたとは、、、
あぁ、、そうか!。
奥さんがいたので、「恋慕の心なし!」と「独行道」に記載したのだろう!。

追伸)
もっと詳しく記載したかったのだが、また、連載等になっては大変なので、
参考資料をもとに抜粋させて頂いた。
にしても、小説・宮本武蔵のイメージが崩れてしまって申し訳ないと思うけれど、
実在した「宮本武蔵」は、ひねくれ者、風呂嫌いで汚臭で嫌われた剣客、
戦ってもいないのに戦って勝った!とホラ吹き剣豪、、、、
歴史を紐解いていくと、イメージとは打って変わった人物像が浮かび上がってくるから面白い。

その様に考えると、小説、TV、インターネット等のメディアは怖い。
勝手に想像されて、、その想像が人物像になってゆく。
そう言った意味では、芸能人は大変ですなぁ、、、。
(おわり)
コメント
ですね。
現在に残っている書物の中で、できるだけ信憑性の高いと思われるモノを探して、読んで、そして、想像した中での人物なので、本当は、、、は、誰にも解らないですね。
  • by 中山手
  • 2014/11/08 10:15 PM
結局当人と会って確認した分けではないので実像なんて分からないって事でしょうね〜
存在してなかったのかも知れないし。。。
  • by ポンキチ
  • 2014/11/02 8:03 PM
コメント有難うございます!。数少ない手元の資料で記載しましたが、色々と教えて頂けると、また違う武蔵像が浮かび上がってきて、イメージが膨らみます!。
有難うございました!。今後とも宜しくお願い致します!
  • by 中山手
  • 2014/03/31 1:02 PM
細川家で武蔵が支給されていたのは三百“俵”じゃなくて三百“石”ですよ。

当時の奉書に
「宮本武蔵ニ八木(米)三百石遣候間、佐渡さしづ次第ニ可相渡候」
という一文がありますので。

ついでに言うと、この武蔵が支給されたという三百石は知行(奉公にかかる必要経費も含む)でなく手取りなんで、仮に知行に換算した場合四公免として750石(細川家の三八免なら790石)分に相当します。

これは、戦場での活躍を重ねて加増された上泉主水や富田越後、あるいは幕政の中枢にまで登り詰めた柳生宗矩なんかと比べるのであれば、確かに落ちはしますけども、彼らは主家に対してそれだけの貢献をした上で、その石高を得ている訳なんで(柳生宗矩でも徳川家に仕えた当初は200石でした)、細川藩に対してそういった貢献をした訳でもない武蔵に支給された300石(実質700石)というのは、当時の一流所と比べても決して遜色があるものでは無いんですよ。(客分扱いとして、細川藩に対して奉公の義務を負っていない事を考えると、むしろ破格な待遇かもしれません)

余談ですが記事内で、小野忠明の石高を800石としていますが、これは間違い。確かに小野家自体は後に加増されて800石となりましたが、これは忠明の死後の事でして、忠明の代は600石です。
  • by あ
  • 2014/03/30 5:12 PM
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