織田信長 その人

  • 2019.11.28 Thursday
  • 02:35

明智光秀を書いたら

必然的に、織田信長も書きたくなった

僕が【家主】の中山手 線です。

 

早速です、

前回、織田信長は一滴も酒を飲めなかったとか、

彼に纏わる話を色々と書いたけど、

今回は、下記の2点に絞って、書いてみたい。

 

・人材登用

・総見寺ご神体(神になった信長)

 

[人材登用]

通説には、

織田信長は実力主義で、身分を問わず、デキル者は大抜擢する!と言われてるけれど、

事実は、まったくもって、そうではない。

通説通りでは、まず、[秀吉]が筆頭だけれど、

[秀吉]は、身分の低い百姓出身者ではなく、豪農出身者であること

少し時代が遡るが、

武田信玄の重臣である高坂弾正も豪農出身で武田家重臣まで出世している。

この時代、豪農出身者が重臣まで出世した人物は、数多く存在する。

 

次に、[明智光秀]。

彼も出身は定かでないが、そもそも13代足利義輝、

つまり、将軍家に使えていた人で、その伝手で15代足利義昭にも使えていた。

美濃の明智氏出身ではなく、その支族である妻木氏出身というのが今の通説だが、

未だ定かではないが、それなりの一族出身者である

 

他に[滝川一益]。

通説では、甲賀の忍者出身と言われているけれど、

事実は、三重の北畠氏氏族である木造氏から派生した名族・滝川氏出身者

 

信長の家臣で、

通説の彼ら3人以外に身分の低い出身から

実力で重臣まで上りつめた家臣がいたであろうか?

少なくとも、僕が知っている武将では存在しない。

 

つまり、事実では、

通説で言われているような低い身分から出世して重臣になった人材等は

どこにもいないのである

 

また、信長は、中央集権国家を目指していたようで、

晩年の天正8年頃から、官僚と武将(軍隊)とを明確に区分けしだしており、

・官僚には行政権の委託(信長の代理人)

・武将には戦争と治安維持権の委託(信長の代理人)

・立法権・司法権は、あくまでも信長1人と定義されている。

■平たく書くと、土地分配制度の廃止と現代のような報酬制への変更

委託とは、江戸時代で例えると[代官]のような権限代理人

明智光秀の支配地、つまり、畿内一円。当時の言葉で書くと

 [天下(畿内)]から改革をはじめているので、

 この改革、つまり、光秀は、信長に彼の支配地である

 行政権と司法権を取り上げられることを恐れたのかもしれない。

 ・当時、[天下]とは[近畿一円の畿内]をさしており、

  現代で言われている[全国統一]を[天下統一]とは言わない。

 

話はとんでしまったが、織田信長の人材登用実績を鑑みる限り、

実力主義は、その通りかもしれないけれど、

身分の低い者が重臣まで出世したという事実はない。

 

それは、あくまでも秀吉自身の自伝である太閤記のねつ造と

後世の作り話なのだ。

 

 

[総見寺ご神体(神になった信長)]

そもそも織田信長という人は、

豊臣秀吉や徳川家康のように家臣に土地を与え、

家臣たちは大名として、そこから年貢を取り、

取りたてた年貢米を商人に売り、

そして、換金するというような支配構造を考えておらず、

最終的には、現代と何ら変わらない

[完全報酬制度]にしようと考えていたのかもしれない。

 

その理由は、

彼である織田家の主たる財源は、

米ではなく、楽市・楽座からの税収であったことは

あまり語られない

 

では、なぜ、織田信長が年貢米よりも、

楽市・楽座からの税収に目を付けたのか?というと、

別に彼が目を付けたのではなく、

彼の祖父である織田信定、父である織田信秀と、

織田家代々、港町からの税収で繁栄してきたからなのだ

 

つまり、織田信長本人のアイデアによるものではない。

彼が織田家を継いだ時、領土的には尾張下4郡しかなく、

尾張下4郡といっても、静岡側の2郡は、ほぼ今川氏に抑えらえており、

残りの2郡も親族や家臣たちの土地が複雑に入り組んでおり、

年貢を取り立てるどころではなかった。

ちなみに、当時の戦国武将たちは、生涯、本拠地を移動することは無い中で、

 織田信長は、本拠地を[那古野城]⇒[清州城]⇒[岐阜城]⇒[安土城]と情勢により

 移動させた信長の戦略は革新的である!等と歴史家たちは絶賛し、称賛するけれど、

 実の所、信長の父親である織田信秀、その人が[勝幡城]⇒[古渡城]⇒[那古野城]⇒[末森城]と

 経済基盤を確立する度に本拠地を移動しているのだ。

 つまり、経済基盤を確立する度に、本拠地を移動するのは、

 信長の戦略ではなく、その父親である織田信秀の戦略を信長が踏襲しただけの話。

 歴史家たちは、どうして、そのことを公にしないのか?が、僕は不思議でならない!

 

さてさて、織田家が主家である尾張守護職よりも経済力を有し、

また、幾度となく他国と戦い、その軍隊を維持できたのか!は、

[津島の港町]と[熱田の門前町]からの経済流通拠点からの税金であった。

織田家代々の収益源が信長を天下まで押し上げたので、

必然的に信長は領土を広げると商業都市をまず押さえている。

有名なのは、商業都市・堺への三万貫の段銭である。

 

つまり、箇条書きにすると、

1.領土を広げる。

2.商業都市を押さえ、確保する。

3.信長領土内の商業都市と新都市間の関所の撤廃。

4.信長領土内の商業都市と新都市間に街路、国道、高速道路を作る。

5.新都市を整備をする。

6.楽市・楽座を開き、ベンチャー企業を育てる。

  ※ベンチャー企業に融資もしたそうです。

7.人が来る。

8.税を取る。

 

この様な手順を繰り返し、

信長の領土内は、他国からの移り住む人も多く、

税収も増えていったようだが、

 

もっと税収を上げる為に、

信長が行ったことは自らが[総見寺のご神体]となり、

[生き神様]になることであった。

 

この[生き神様]事件で、

色々な説がでているが、

 

信長が実際におこなったことを書くと、

1.人が総見寺のご神体(信長)に手をあわせて願い事を書く。

2.信長本人、もしくは奉行が、その願い事を確認する。

3.かなえる事可能なことがらは、本人を呼びかなえてあげる。

  例えば「家が無くなったので、新しい家が欲しい!」と願い事に書いてあったとしよう、

  後日、その願いを書いた人物を呼び、新しい家を与えている。

4.総見寺のご神体(信長本人)に願い事をかけば、

  願い事がかなえられる!と噂になり人が集まる。

5.町が人に溢れ、商業が発展する。

6.税収を増やすことができる。

 

これが[信長が神になる]ことで実際におこった出来事である。

信長の思惑は、本当に、ただ単にこれだけだったようだ。

 

通説や、歴史家が言っている思惑など、何もなく、

信長本人は「単に税収を上げて、国を富ましたい!」と考えただけのようだ。

 

「案ずるより産むがやすし」やね!

 

 

次回、織田信長を書くことがあったら、

その時は、信長の私生活とか、幼少の頃に受けた教育とかを書きますね。

えっ、マジ! そんな教育を受けたの?

ムチャクチャ、可哀想!って必ず思うと思います。

 

 

では、寝ることとする。

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