明智光秀 その謀反理由[本能寺の変]

  • 2019.11.27 Wednesday
  • 21:51

日本の歴史でまかり通っている通説は、

ほぼ間違いだと思っている

僕が【家主】の中山手 線です。

 

ではでは、

来年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」というタイトルで、

[明智光秀]が主人公だという

 

はてさて、ドラマになるのかな?

[明智光秀]の前半生のほぼすべてが謎に包まれているので、

多分、書き手の想像で書かれれているんだなぁ、、、。

 

ただ近頃は、

テレビやネットで[明智光秀]について話されたり、

[真説]がでてきたりして、謀反人[明智光秀]の汚名挽回がされているが、

やはり、僕は[真実]では無いと思う!。

 

まぁ、兎にも角にも、

[明智光秀]について語るとき前に、

まずは、彼がどの様な人物であったのか?

どの様な性格だったのか?を知る必要があるので記載します。

 

当時、織田信長や明智光秀の身近にいて、

宣教師[ルイス・フロイス]の[織田信長]の人物評価は、

歴史学会で、一部、重用されているにも関わらず、

なぜか? [明智光秀]の人物評価は無視されているのです。

 

では、

その[ルイス・フロイス]が[明智光秀]と実際に会って、会話して、

また、当時の織田軍団の各武将たちから聞いたと思われる

[明智光秀の人物評]について転写してみると、、、

 

[ルイス・フロイスから見た明智光秀の人物評]

1.明智光秀は、その才知、深慮、狡猾さにより、

  織田信長からの寵愛を受けた。
2.明智光秀は、裏切りや密会を好む人物であった。

3.明智光秀は、己を偽装するのに抜け目がなく、

  戦争においては謀略を得意とし、

  謀略を得意とするが上での忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

4.明智光秀は、友人・同僚たちに、人を欺くために72の方法を体得し、

  学習したと吹聴していた。
5.明智光秀は、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主である。
6.明智光秀は、主君織田信長からの恩恵を利することをわきまえていた。

7.明智光秀は、織田信長から受けている寵愛を保持し、

  かつ、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。

8.明智光秀は、誰にも増して、絶えず織田信長に贈与することを怠らず、

  その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて

  調べているほどであり、織田信長の嗜好や希望に関しては、

  いささかもこれに逆らうことがないよう心がけた。

9.明智光秀は、一部の者が織田信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して

   「自分はそうではない」と装う必要がある場合などは、

   織田信長の前で涙を流し、廻りの者が、

  それは本心からの涙に見えるほど偽装が上手であった。

10.明智光秀は、刑を科するのに残酷な人。

11.明智光秀は、独裁的でもあった。

12.明智光秀は、えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

13.明智光秀は、殿内にあってはよそ者であり、

   彼は外様(外来)の身であったので、

   織田家中のほとんど全ての者から快く思われていなかった。

 

どうでしょう!

明智光秀のイメージが浮かび上がりましたか?

 

過去から現在に至るまで、[明智光秀]と言えば、

実直で、マジメで、深く神仏を篤く信仰していて、

保守主義だったと言われてきましたが、

実の所、まったくの正反対のたぐいまれな合理主義者であり、

その上、人を騙す手口や偽装が上手であったと評価しています

 

僕は、個人的には、

宣教師[ルイス・フロイス]の人物評価に対して、

絶対的な支持をしているのですが、

歴史学会のお偉い先生方は、評価していないみたい。

 

お偉い先生方やそれを信じている歴史好きは、

[明智光秀]と実際に会話するどころか、

会ってもいない江戸時代の方々が書いた軍記物語や

文献を真実だったように話している。

 

まぁ、それはそれとし、

宣教師[ルイス・フロイス]は、

当時、[明智光秀]と何度も会っているし、会話もしていて、

かつ、当時の織田家の諸将とも会って会話もしている。

その様な人物が書いた文献は、

外国人だから信じない!ではなく、

外国人だから冷静に見ることができたのではないのか?と

どうして思わないのだろうか、、、。

 

では、

次に、[明智光秀]が[長篠の戦い]から

[本能寺の変]と言われる[謀反]をおこすまで、

時系列的に、彼の行動を転写してみます。

 

■天正3年(1575年)

 ・高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加。

 ・織田信長より、丹波国攻略を任される。

 

■天正4年(1576年)4月

 ・石山本願寺との天王寺の戦いに出動。

 

■同4年5月5日

 ・天王寺合戦で石山本願寺に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死し、

  危ういところを織田信長が来援し助かる。

 

■同4年5月23日

 ・過労で倒れる(しばらく療養)
 

■同4年11月7日(1576年11月27日)

 ・正室の煕子が坂本城で病死

 

■天正5年(1577年)

 ・雑賀攻めに従軍する。
 

■同5年10月

 ・松永久秀の信貴山城の戦いに参加して城落させる。
 ・丹波攻めを再開。手始めとして亀山城を落とし、拠点とする。

 ・八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。

 

■天正6年4月29日

 ・毛利攻めを行う羽柴秀吉への支援軍として播磨国へ派遣
 

■同6年6月

 ・羽柴秀吉と共に播磨国神吉城攻めに参加。
 

■同6年10月下旬、

 ・織田信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加。

 

■天正7年(1579年)

 ・丹波攻めは最終段階に入る。

 

■同7年2月

 ・八上城が落城。
 

■同7年8月9日(1579年8月30日)

 ・黒井城を落とし、丹波国を平定。
 ・細川藤孝と協力して丹後国も平定。

 

■天正8年(1580年)

 ・織田信長は明智光秀を出し褒め称え、

  この功績で[丹波一国(約29万石)]を加増されて合計34万石を領する
 ・さらに、南山城領(山城国南半分[京都])の支配地も加増される。
 ・この頃、亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名。

 ・黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を配置。
 ・丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の

  近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属。
 ・これにより明智光秀の支配地は、丹波国、滋賀郡、南山城(山城国半分)を

  含めた、近江から山陰へ向けた畿内全域(240万石ほど)となる

    ※織田軍団中、破格の出世。

 

■天正9年(1581年)

 ・安土城の左義長の爆竹と道具の準備担当。

 ・京都御馬揃えの運営責任者に任命。
 

■同年6月2日(1581年7月2日)

 ・織田家には無かった軍法を、明智光秀が家法として定める[明智家法]。
  後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだし

  そのうえ莫大な人数を預けられた。明智一族家臣は子孫に至るまで

  信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。

 

■天正9年8月7・8日(1581年9月4・5日)

 ・光秀の実妹(義妹の説あり)の「御ツマキ殿」が死去(織田信長側室)
 

■同9年12月4日(1581年12月29日)

 ・[明智家中法度]5箇条を制定。
 ・織田家宿老・馬廻衆への儀礼、他家との口論禁止及び喧嘩厳禁、違反者即時成敗・自害。

 

■同9年12月

 ・明智光秀の重臣・斎藤利三が、同織田家家臣である稲葉家家臣・那波直治を引き抜く

 

■天正10年1月

 ・茶会を催し「床の間に織田信長自筆の書を掛ける」

 

■天正10年3月5日(1582年3月28日)

 ・武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍。

 

■同10年(1582年)5月

 ・徳川家康饗応役であった任務を解かれ、

  再度羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられる

 

■同10年(1582年)5月27日

 ・織田信長は、明智光秀に那波直治を稲葉家へ帰すように命じる

  ※明智光秀、織田信長の命令に従わず、拒否。

 

■同10年(1582年)5月30日

 ・織田信長、斎藤利三に切腹を命じる裁定を明智光秀に下す

 

■同10年6月2日(1582年6月21日)

 ・早朝に出陣。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げる。

 <京都へ向かう理由>

 ・軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのこと」

  として京都へ向かう。

 ・雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、

  信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたらしい。

 

<<天正10年6月2日:本能寺の変>>

 

時系列的に見てみると、

明智光秀が「なぜに謀反をしたのか?」の察しがつくと思います。

 

彼の大きな転機となっているのは、

3つあります。

1)天正3年11月7日:正室の煕子が坂本城で病死。

2)天正9年8月7・8日:実妹の「御ツマキ殿」が死去(織田信長側室)。

3)天正10年5月30日:織田信長、斎藤利三に切腹を命じる裁定を明智光秀に下す。

 

見ての通り、1)と2)では、明智光秀の行動に異変は無いが、

3)の彼の右腕と言われる筆頭家老[斎藤利三]に

「切腹命令」が織田信長から出て、直ぐに[本能寺の変]となっていることに

注目して頂きたい!。

 

そもそも明智光秀は、

織田家中では、ご法度ではなかったようだが

人道的ではないと思われる

同じ織田家家臣である[稲葉一徹]の[稲葉家]から2人も引き抜きをしているのである。

1人は、右腕と言われる明智家筆頭家老[斎藤利三]

もう1名は、[那波直治]だ。

※柴田家(柴田勝家)からも引き抜いており、他もあるようだ

 

2度目は、さすがの[稲葉一徹]も怒ったらしく、

織田信長へ訴えて、訴訟を起こしている。

その裁定が、[斎藤利三]の切腹命令である

 

過去、現在の歴史家の諸先生は、

ここを見落としているのか?

問題にしていないのか?は解らないけれど、

誰も口にしない。

 

そもそも明智光秀は、織田家中で引き抜ける者がいれば、

節操なく引き抜いている。

あの秀吉でさえ、そんなことはやっていない

故に、[ルイス・フロイス]も書いているように

明智光秀は「織田家中のほとんど全ての者から快く思われていなかった」

 

つまり、長篠の戦いから本能寺の変までの

彼の行動を時系列的に見てみると、、、

織田信長が気に入っていた彼の側室である光秀の実妹が亡くなったことで、

織田家中での彼の強力な味方は、もう誰一人いなくなり、

追い打ちをかけるように、

明智光秀軍団中核・最大の兵数(3,000)を擁し、

かつ、右腕である筆頭家老・斎藤利三に[切腹命令]がでれば、

明智光秀としては、織田家での先行きが無くなったも同然と

なったのではないだろうか。

 

故に、[ルイス・フロイス]曰く[計略と策謀の達人]であるはずの光秀が、

タイミング的にも、機会的にも、最大のチャンスである[この時]を見逃さず、

後先も考えない、突発的な[謀反]に踏みきったと思われる

 

また、[謀反をする]前夜、

斎藤利三たち重臣と相談した!と記録されているが、

そもそも、相談した相手である斎藤利三本人に、

織田信長から切腹命令がでているのである。

 

信長を討てるこの[チャンス]を力説したのか?

この先、織田家最大派閥である自らの軍団が

瓦解してゆくであろうことを説明したのか?

 

事実は解らないが、

[本能寺の変]が無ければ、斎藤利三は、

変の次の日、6月3日には切腹しなければならなかったのは事実。

 

にしても、宣教師[ルイス・フロイス]が評した通り

明智光秀、彼のその行いから人望なく、

[本能寺の変]後、誰も彼に味方しなかったのは事実

 

彼は、通説の通り、

織田信長から無理難題を命ぜられたので謀反をしたのではなく、

信長の側室である明智光秀の妹が亡くなったことにより

最大の後ろ盾をなくし、出世どころか、

降格もしくは織田家から追放になることが見えていたこと

追い打ちをかけるように、筆頭家老に[切腹命令]が下ったこと

 

謀反する以外に

生き残る道は無かったと思われる。

 

 

皆さんは、どう思われます?

 

 

 

では、寝ることとする。

 

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