[死]に至るプロセス[空性について]

2018.10.16 Tuesday

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    ようやく、[死に至るプロセス]の解説は終わったと思い、

    再度、自身の理解のために読み直してみたんだけれど、

    一番大切な[空性]についての解説をしていなかったことに気づき、

    この[空性]について説明をしておこうと考えた次第です。

     

    さてさて、

    まず、仏教では、密教に至る前を顕教と呼び、

    と言うよりも、顕教を修学した後に、密教を学ぶと書いた方が正しい。

    また、顕教では、その基本的教理は[無]としているが、

    密教では、[空]を基本的教理としていることを

    まずは、認識しておいて頂きたい。

    日本では、真言宗と天台密教以外は、すべて顕教とされている。

     

    例えば、

    テレビや映画や本、雑誌などでは、

    悟りを得る為には[無]にならなければならない!

    なんて表現されているが、それは顕教でのこと。

     

    そして、顕教も[空性]については勉強するが、

    特に、密教では[空性]を理解する!ということが重要とされている。

    有名なところでは、「色即是空、空即是色」である。

     

    過去のブログにアップしている[般若心経の訳文]にでてくる一説だ。

    [色]は、[色事]や[色情狂]などの意味ではなく、単に[形]という意味。

    西遊記に登場する[玄奘三蔵法師]が[般若心経]を翻訳された時、

    サンスクリット語の言葉の意味合いを考慮し、

    []という漢字を使わずに、[]という漢字を使ったと言われている。

    従って、

    色即是空、空即是色」の意味に無視して、

    端的に現代の漢字で書きなおすと

    形即是空、空即是形」となる。

     

    サンスクリット語を直訳した経典の意味としては、

    形あるものは、依存しており、

    依存しているものは形あるもの」と僕は訳したが、

     

    [空性]本来の意味を考えて書くのであれば、

    「形あるものは、依存して生まれ、

    依存して生まれるものは、形あるもの」となる

     

    これを僕なりに、より解りやすく書くとすれば、

    「形あるものは、見る者によって依存して変わり、

    見る者によって依存して変わるものは、形あるもの」となる。

    つまり、[]ではなく、[]という漢字を当てはめた方が正しくなる。

     

    例えば、

    パソコンが1台あるとしよう。

    ある人は、自分はパソコンでゲームをしているので、

    このパソコンの持ち主に「ゲームしてる?」と聞くだろう。

    でも、別の人は、表計算をするためにパソコンを使っていた場合、

    彼は、パソコンの持ち主に表計算の質問をするだろう。

    また、別の人は、映画をパソコンで見ている場合、

    彼は、パソコンの持ち主に「ディスプレイは

    大きい方が良いね!」と話をするだろう。

     

    つまり、パソコンでゲームをしている人は、

    パソコンを見るとゲーム機だと思い。

    また、ある人は、表計算をする機械だと認識し、

    また、ある人は、映画を見るモニターだと思うのと同じように、

     

    同じモノを見ても印象が違うのは、

    パソコンが見た者1人の一方的な認識で成り立っているモノではなく、

    また逆に、見た者1人の認識のみが正しいモノでもない。

    つまり、形は、見る者に依存して認識されるという事。

    また、その認識がそのモノを存在させているという事。

     

    という事は、パソコン本来の[本質]が

    見る者によって、その様な認識を与えるというのではなく、

    その存在の[性質]が、その様な認識を与えるということ。

    []ということなのだ。

     

    それが[色即是空、空即是色]の意味であり、

    [空性]の性質ということなのだ。

     

    そのことを踏まえて鑑みてみると、

    肉体が衰弱し、そして、その肉体を喪失した後、

    残された自身の[意識]と[]から

    [自性の分別の80の心]で失い、

    次に、[真っ白に現れた心]で喪失し、

    次に、[真っ赤に輝く心]でも喪失し、

    次に、[真っ黒に近づいた心]で喪失し、

    最後に、[死の光明]を迎えた時、

    [根源的な気]と[根源的な意識]は、覚醒するのではなく、

    [空性]本来の性質に戻るのではないのか?

    ・主観と客観の対立から離れた状態

    ・認識される側と認識する側を混ぜた渾然一体となった状態

     

    つまり、[死の光明]とは、

    [空性]そのものの姿

    [空性]そのものの性質

     

    という事は、

    自身の生きてきた人生の中での

    [心の動き(行ってきた行為)]を考えた場合、

    いや、すべての心の動きを喪失した後に

    残った自身の[]と[意識]は、

    [死の光明]という[空性]を見ることで、

    自身の行ってきた[善業である行為]と

    自身の行ってきた[悪業である行為]の

     

    どちらが写し出されるのか?

     

    転生できるのか?

    もしくは、輪廻の渦に入って、

    長い苦しみの時間を迎えるのか?

     

    そういうことだったのか!

     

    あっ、すみません!

    なんか思いっきりマジに書いてしまった。

    もう、遅いので書き直しするのをやめて寝ることとします。

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