[楠木正成]の出自

2017.11.26 Sunday

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    近頃、色々な文書が発見され、

    過去に習った歴史や定説に多大な影響を与えるとともに、

    新たな新説が浮上したりし、

    ならば!我が実家のヒーロー[大楠公(楠木正成)]の新説でも書いてみるか!

    なんて僕が【家主】の中山手 線です。

     

    さてさて、[楠木正成]と言えば、

    南北朝時代、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府の倒幕に貢献し、

    [建武の新政]で足利尊氏赤松則村(円心)らと共に天皇を助けたことで有名な武将なのだ!

     

    ただ、彼の出自には諸説あり、

    [1]河内国の土豪説

    [2]悪党・非御家人説

    [3]北条得宗家の被官・御家人説

    の3つがあり、この内、どれが事実なのか?

    もしくは、事実に近いのか?を数年かけて調べてきた。

     

    [1]~[3]まで1つづつ説明をすると、かなりの文字数になるので、

    ザックリ書くと、[3]の[北条得宗家の被官・御家人説]が一番近いと僕は考えている。

    その理由はと言うと、、、

     

    鎌倉時代、当時の武士を鑑みると、

    その氏で[独立した家]は、鎌倉幕府から与えられた荘園や地頭の領地を苗字として名乗る。

    例えば、毛利氏の場合、鎌倉幕府創業以来の功績者である[大江広元(本姓・大江氏)]の

    四男[大江季光]が[相模国愛甲郡毛利荘(現在の神奈川県厚木市周辺)]を[本貫]とした事による。

    さて、この[本貫]とは何か?って簡単に書くとね。

     

    [本貫]とは、現代でいうと戸籍謄本の本籍地をその土地にすること。

    律令制では、氏族集団の発祥の土地をさす。が本貫の意味とされております。

     

    従って、[大江季光]の場合は、[毛利荘]に本籍地にうつしたので[毛利季光]と名乗り、

    彼の嫡流と言われる子孫は、[毛利]を苗字とした!と言うことだ。

    あっ、ちなみに鎌倉時代での[毛利]の読みは、[もうり]ではなく[もり]と読みます。

     

    そして、ここは簡易的な説明ですませるけれど、

    [毛利季光]の孫にあたる[毛利時親]が安芸国高田郡吉田荘と越後国刈羽郡佐橋庄、

    南条庄を領していたが、安芸国高田郡吉田荘に移り住んでからは、

    本家は本貫を[相模国毛利荘]においたままなので[毛利氏]を名乗り、

    分家は、本家領地の周辺の土地を相続し、その相続した土地を本貫とした為に、

    分家は、広島県安芸高田氏吉田町吉田村近辺の在地名を苗字とし、

    同じく、越後国刈羽郡佐橋庄、南条庄周辺の在地名を苗字として名乗った。

    例えば、毛利元就時代に活躍した桂氏坂氏福原氏志道氏等がそれ。

    また、上杉謙信時代に活躍した北条氏安田氏南条氏等がそれ。

     

    つまり、楠木氏の場合、

    北条得宗家の所領であった駿河国楠木村に北条得宗家被官が居住し、

    本貫としたことが考えられる。

    ※被官=北条家に仕える武士

     

    なぜ?そのように考えられるかと言うと、

    何かしらの事変(霜月騒動か?)があり、楠木氏の所領である駿河国楠木村が

     鶴岡八幡宮に寄進され、[楠木正成]の父親である[楠木正遠]と彼の嫡男である

     [楠木正俊(俊親とも伝えられる)]は、鎌倉の地で亡くなっている事。

    長崎氏の本家である北条得宗家内管領[平頼綱]が

     鎌倉幕府最後の有力御家人である安達氏を滅ぼした[霜月騒動]か?

     それとも [平禅門の乱]か?、は確証を得ていないが、

     元服前(成人前)の[楠木正成]およびその兄弟[姉、妹、正季、正家、正氏]、

     そして、彼らの叔父[楠木正康][楠木高遠]達が[毛利時親]の隠居領近くの

     安達氏所領であった観心寺領へ移っている事。

    [毛利時親]が、彼の隠居地である[河内国加賀田村]と資料には書いているけれど、

     実際は[加賀田]ではなく、もっと山深い[唐久谷(現在も邸宅は現存)]と言う場所。

     個人的には、よく友達と夜に肝試しに良く行った場所に近いが、

     とにかく相当な山の中なのだ。

     ちなみに、我々の小学校は[加賀田小学校]です。

     話がそれてすみませんでした! さて、そんな山の中に[毛利時親]は邸宅を構え、

     その場所に少年[楠木正成]は毎日通い、大江流兵法を習っていたとの事。

     どのような理由で、[毛利時親]と[楠木一族]の親交があったのか?は不明だが、

     おそらく,了変の折り、[毛利時親]と正成の父[楠木正遠]との間に何かしらの親交があり、

     その伝手を頼って、落ち延びたのだろう。

    [楠木正成]がまだ[多聞丸]と名乗っていた少年のころ、

     山深き[毛利時親]邸へ毎日通っていたのは上記に書いたが、

     ある日、野党に矢を射かけられて襲われ、その場で伏して難を逃れた!

     という場所に[矢伏神社]という本当に小さな神社がある。

     僕の友人の実家の家の前にあるのだが、これは神社と言うよりも[祠(ほこら)]に近い!

     その友達と「伏せるぐらいなら杉の木に隠れるけどな!」って言うぐらい

     大木とは言えないが、中学生が隠れるぐらいの杉の木が何本も立ち並んでいる場所なのだ。

     あっ、僕らが中学生になる前だったから、今から41~42年前だけど、、、

    [毛利時親]の正妻が、当時最大の権力者であった北条得宗家内管領の

     [長崎円喜の妹]であること。

     また、彼[毛利時親]は[長崎円喜]を嫌い河内国の加賀田村へ隠棲した事実があること。

     ちなみに、鎌倉幕府末期(14代執権・北条高時から16代・北条守時迄)の

     北条得宗家外戚として権勢を強めた[安達時顕・高景 / 父子]がいる。

     その[安達高景]は[長崎円喜の娘]を娶っているので、

     [毛利時親]とは義理の叔父・甥の関係になる

     この関係を鑑みると、[楠木正成]一族が安達領の観心寺に移った所以も想像できる

    [楠木正成]が幼少の頃に住んでいたとされる観心寺は[霜月騒動]の折り、

     安達氏から北条得宗家の所領になっている

     但し、管理は[安達時顕・高景]父子がおこなっていたようである。

    С倉幕府滅亡前に、[楠木正成]は、北条得宗家・北条高時の命により、

     反幕府勢力の摂津国渡辺党を打ち滅ぼしている事実があること。

    ┃同様に、北条高時の命により、紀伊国湯浅氏を打ち滅ぼしている事実があること。

    鎌倉幕府六波羅探題の命により、大和国の越智氏を撃滅している事実があること。

    楠木氏と同じく、北条家家人の[赤松則村(円心)]の正妻が[楠木正成の姉]であること。

     また、[赤松則村(円心)]は、[楠木正成]と共に後醍醐天皇に味方をし、

     ほぼ同時期に倒幕の挙兵をしていること。これは偶然ではないと思われるが如何に!。

     

    ただ、楠木氏と赤松氏の違いは、同じ北条家の家人(被官)でも、

    楠木氏 ➡ 北条得宗家被官:北条得宗家の家人であり鎌倉幕府御家人でもあった。

    赤松氏 ➡ 北条家被官:北条氏分家の家人。

    そういう面からすれば、後醍醐天皇から[]の家紋を下賜された[楠木正成]だが、

    [赤松則村(円心)]は、何も下賜されていない

    つまり、[足利氏]と[新田氏]であれば、同じ[清和源氏]でも、

    血統からすれば[新田氏]の方が[源氏嫡流]に近いとしても、

    鎌倉時代を通じて、北条得宗家と姻戚関係を結び、幕府の要職を担い、

    朝廷からの官位も受けていた[足利氏]の方がランクが上でかつ、

    清和源氏嫡流あったように

     

    同じ[北条氏]の被官(家人)とは言え、

    血統からすれば[村上源氏]出身の[赤松氏]の方が上だけれども

    北条得宗家被官(家人)の[楠木氏]は、

    [赤松氏]よりもランクが上であったということである。

     

    以上の事を踏まえて考えると、

    [楠木正成]の出身地は、北条得宗家被官(家人)であり、

    出自は[駿河国楠木村]と言うことになる。

     

    当然、本貫の地である[楠木]を苗字としている為、

    (河内国のどこを探しても[楠木]という地名は無い)

    本家は本貫の地(駿河国楠木村)を苗字として名乗ってはいるが、

    叔父や弟たちは[分家]として、河内国の各所を本貫の地とした為、

    [和田氏]や[石川氏]、[橋本氏]、[神宮寺]等の河内国の地名を苗字として名乗ったわけである

    また、[楠木正成]の譜代の家臣として、[宇佐美正安]という人物が登場するが、

    [宇佐美氏]は、伊豆国宇佐美荘を本貫とする氏族

    つまり、[楠木氏]の本貫の地とは、かなり近い場所であり、

    また、[宇佐美氏]も[楠木氏]同様、北条得宗家の家人でもある。

    楠木一族に[和田]を名乗る人物が特に増えだしたのは、

     湊川の戦い以降で、[楠木正成]及び一族18人が亡くなった後からで、

     理由として考えられるのは、楠木一族の所領減少が問題であり、

     多分、和田の所領しか残らなかったのだろう。

     石川や神宮寺、橋本は、北朝勢力に取られてしまったと考えられる。

     

     

     

    最後に(おまけ)

     

    楠木氏と言えば、菊水の家紋

    菊水の家紋と言えば、楠木氏

     

    が、[楠木正成]が後醍醐天皇から[]の家紋を下賜されるまでの

    楠木氏の家紋は何だったのか?

    これは以外に知らない人が多いと思う。

    実は、この家紋なのだ!

    [山吹に流水]

    この家紋が本来の楠木氏の家紋だったようだ。

     

    後醍醐天皇から[菊のご紋]を下賜された折り、

    [山吹]を[]に入れ替えて[菊水の家紋]を考案したと思われる。

     

    通説では、

    天皇から家紋を下賜された際、あまりにも恐れ多いからと[菊]を半分に、

    半分を[水]にしたことで生まれた家紋と言われている。

     

    が、よく考えて欲しい。

    恐れ多いからと[]を半分にすることは理解はできるが、

    どうして残り半分を[水]にしたのだろうか?

    その[水]は、どこからきたのだろうか?

    そんならちのないことを何十年も考えてきたけれど、

     

    そもそもの[楠木氏]の家紋はなんぞや?って考えて、

    色んな文書を読み、探して、ようやく辿り着いてみたら、

    [山吹に流水]の家紋だった!

     

    あっ、[山吹]を[菊]と入れ替えただけなのね!

     

    単純だけど、

    これで[菊水]の紋が生まれた理由が解ったのだ!

     

    そうそう、

    そもそも楠木氏の本姓は[橘氏]とされる。

    この[山吹に流水]の家紋は、[橘諸兄]が好んだとされる[山吹]と[流水]を

    組み合わせた家紋との事。

    橘氏の家紋は[]だが、橘氏の傍系でも[山吹に流水]の家紋を使っている氏族はすくないという。

     

    では、寝ることする。

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