宮本武蔵への疑問

2017.10.17 Tuesday

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    実は、宮本武蔵が大好きな

    僕が【家主】の中山手 線です。

     

    過去に[宮本武蔵の実像]というモノをアップしたけれど、

    アクセス数がかなり多いので、

    もう少し違う視点からみて、

    再度、宮本武蔵への疑問を投げかけてみたい。

     

    なぜならば、

    彼が生きた時代の数多い剣豪の中で、

    宮本武蔵ほど色々な面で[不思議(疑い)]の多い人物]も少ないからだ。

     

    まず、

    彼が若い頃の剣術流派は、[当理流]

    これは彼の父と言われている[新免無二][当理流]だからだ。

     

    そして、いつ頃なのかは明確ではないらしいが、

    その[当理流]を、彼なりに発展させて[円明流]という流派を興し改めたらしい。

    また、その[円明流]を発展させて[二天流]を興し改め、

    最後には、[二天流]を色々な面から纏めて[二刀一流]、最後には[二天一流]へと改めている

     

    ちなみに、彼の流派を色々調べてはいるけれど、

    調べる度に先に書いた通りではなく、

    ある書物によれば、[円明流]⇒[二天一流]になっていたり、

    彼が起こした流派名の組合せは色々と異なる。

    が、結局は、彼が亡くなる晩年には、[二天一流]におさまったみたいなのだ。

    彼がもう少し長く生きていたら、また、流派名が変わっていたかもしれない!

    と思うのは僕だけだろうか??

     

    つまりだ!

    剣豪多し!と言えども、

    彼ほど、自身で興した流派名をコロコロ変えた剣豪も珍しい!

    それも、名前だけではなく、

    僕の知る限りでは、同じ人物が興した流派なのに、

    名前が変われば、刀術の内容も異なる!というのも珍しい!

    本当に不思議だ!

     

    次に、彼が誇示している[強さ]だ!

    彼自身が晩年に書いた[五輪書]よると

    「我、若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負す。

    その相手、新当流有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち、

    十六歳にして但馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、

    二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会い、

    数度の勝負を決すと言えども、勝利を得ざるという事なし。

    その後、国々、所々に至り、諸流の兵法者に行き会い、

    六十余度まで勝負すといえども、一度も、その利を失わず、

    その程、年十三より二十八、九までの事也」

    と書いている。

     

    つまりだ!

    この六十余度の対戦者の中で、

    明確に名前を書いている人は、[新当流・有馬喜兵衛]のみで、

    その有馬氏以外では、[但馬国秋山]という強力の兵法者と言うことになる。

     

    となると!

    講談で書かれている[巌流・佐々木小次郎]との勝負が真実とするのなら、

    [巌流・佐々木小次郎]は、[新当流・有馬喜兵衛]よりも無名であり、

    名前を書く程でもない剣豪だったことになる。

     

    でも、[佐々木小次郎]は、

    中条流の免許皆伝を許された古文書(免許皆伝そのもの)も存在するし、

    実際に、彼に免許皆伝を渡した[鐘巻自斎]も有名な剣豪で、

    その[鐘巻自斎]に免許皆伝を渡した[富田勢源]剣豪を通り越して剣聖に等しい

     

    が、[有馬喜兵衛]という剣豪に至っては、一切、不明の人物なのだ。

    [宮本武蔵]と年代が近く、[塚原卜伝]が創始した新当流の流れをくむ剣豪を探してはみたけれど、

    これまた一切、見当たらない。

    強いて書くと、[有馬大和守乾信]その養子である[有馬満盛]その子[有馬満秋]の3名。

    が、この3名。

    共に、剣豪としては有名な方で、彼達が[宮本武蔵]と勝負をしたとするのであれば、

    少なからず、[宮本武蔵]は、徳川紀州藩の剣術師範になっていたはずなので、

    この3名の[有馬氏]とは関係ないと思う。

    ちなみに、[有馬大和守乾信]その養子である[有馬満盛][徳川家康]に新当流の奥義を伝授し、

    その子である[有馬満秋]は、徳川紀州藩の剣術師範となっている。

     

    [宮本武蔵]

    少なくとも、この僕なんか足元にも及ばない

    桁外れの強さをだ!とは認識している!

    けれど、彼に対する僕の疑問は、

    どうして、彼は自分が生きたその時代な中で、

    有名な剣豪と勝負をしなかったのだろうか?

     

    将軍家指南役の[柳生宗矩]は、立ち合いが禁止されているので無理だとしても、

    彼の時代、現代になっても名前を残している剣豪は30名を超える。

    因みに、彼とはほとんど同年代で、しかも同じ二刀流の[山口流・山口卜真斎]

    その他でも、[新陰流・木村助九郎]や、[一刀流・小野忠明][無住心剣流・針ヶ谷夕雲]

    [直心流・神谷伝心斎]等の当時でもチョー有名な剣豪はいくらでもいた!

    が、宮本武蔵が、そのような剣豪達と立ち会った記録はどこにもない。

    唯一あるのは、彼が晩年にさしかかる前、尾張国に留まったおり、

    あやつが宮本武蔵。できる奴!」と尾張柳生の[柳生利厳]が、

    [宮本武蔵]すれ違いざまに思ったという記述が尾張柳生の文献にあるらしいとのこと。

    が、ただ、その記述は何百年後かに誰かが書いた文献で、

    [柳生利厳]自らが書き残したモノではないらしい。

    (僕自身が、実際に目にしていないので、何ともいえない)

     

    宮本武蔵

    彼は自分自身で[日本一の剣豪]と言い残しながら、

    同じ時代で、しかも年齢的にも近く、

    彼よりも有名な剣豪とは、誰一人立ち会っていないのが、

    僕の彼への疑問なのだ!

     

    ならば、

    「俺は日本一の剣豪だ!」なんて

    豪語しなきゃ良いのに!

    なんて思ってしまう!

     

    まぁね。

    正直、当時の剣豪の方々の数や情報量を考えると、

    有名な剣豪の方と勝負するチャンスは、

    なかなか得ることができなかった!とは思うんだけれどね。

     

    でもね。

    せめてね。

    1人で良いからね。

    著名な剣豪の方との交友軌跡等は残して欲しかったな!

    ??!

    僕がまだ知らないだけかな?

     

     

    では、寝ることとする!

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