祖霊信仰(先祖崇拝)と仏教は別モノ

2019.05.19 Sunday

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    今日は、さすがにマイッタな!

    僕が【家主】の中山手 線です。

     

    いやいや、参りました!

    檀家さんとお話をする機会があり、

    神様、仏様、ご先祖様をとっても大切にされているお婆さんから

    「毎朝、毎晩、かかすことなく

    「般若心経」をお唱えしているんだけれども、

    ご先祖様に対して[功徳]があるのでしょうか?」とのこと。

    maxresdefault.jpg

     

    家主:そうですかぁ、、、

       それは本当に良いことをされてますね。

       そのお気持ちは、本当に大切なんですけれど、

       でも、ご先祖様に[般若心経]をお唱えしても、

       まったく功徳ありませんよ!

     

    お婆さん:えっ?、そうなんですか?

         前に来られたお坊さんは、

         [般若心経に勝る功徳はない!]と言ってましたけど、、、

     

    しまった!

    前回、僕の先輩が来られた檀家さんだった、、、

    でも、本当に困るよなぁ、、、、

    大日如来(金剛界).jpg

     

    家主:お婆さんね。

       お釈迦様は「亡くなった人にお経を唱えても、何の功徳もない!」って

       ちゃんとお経で言っておられるんです。

       つまり、ご先祖様に[般若心経]をお唱えしても意味がないんですよ。

       それは仏教だけじゃなくて、キリスト教でも、ユダヤ教でも

       イスラム教でも、まったく同じなんです。

     

    お婆さん:じゃぁ、どうして前のお坊さんは功徳がある!っていったの?

     

    家主:それは何もやらないよりは、やった方が良い!と思ったから

       そうお伝えしたんじゃないでしょうかね。

     

    お婆さん:・・・・・

     

    家主:でもね。

       般若心経よりも、お婆さんのお言葉でお話をした方が

       ご先祖様も、亡くなられた方も、その方が喜ぶし、

       よっぽど功徳があるんですよ!

       これからは、そうしてあげて下さい!

       お婆さんの毎日の気持ちを話してあげて下さいね。

     

    お婆さん:そうねぇ、、

         お経よりも、その方が良いって言うのなら、、、。

     

    家主:そうは言っても、[般若心経]を読んだ方が、

       お婆さんのお気持ちが落ち着くというのであれば、

       ご先祖様や亡くなった方への功徳はありませんが、

       今のままお唱えしても良いと思いますよ。

    IMG_8237ISUMI_TP_V4.jpg

     

    こんなこと、毎回なんだよね。

    祖霊信仰というか、祖先崇拝といいますか、

    ご先祖様を大切にすることは、

    本当に大切な事です。

    この僕も、1番大切にしているのは、

    ご先祖様と亡くなった父母なんだけどね。

     

    でも、お伺いする度に、

    聞かれて、かつ、皆さんが勘違いされているのは、

    祖霊信仰(先祖崇拝)が仏教である!という事。

     

    これ、間違いです!

     

    祖霊信仰は、元々、日本にもあったかもしれないけれど、

    これは中国にあった祖霊信仰が[儒教]と結びつき、確立された信仰であって、

    中国 ⇒ 朝鮮半島 ⇒ 日本という経路で 

    我が国に導入された時期は平安時代の中期か?、末期頃だと思うけれど、

    我が国に儒教が根付いて全国に展開されて、

    花が開いたのは、江戸時代。

    阿弥陀如来.jpg

    この江戸時代の300年の間に、

    儒教信仰の一部が仏教と融合してしまって、

    今に至ってるというわけ!。

    ちなみに、

    現代でも「祖霊信仰(先祖崇拝)」を行っている国は、

    中国、北朝鮮国、韓国、日本国の4カ国

    (あっても東南アジアも数カ国)ぐらいしかないんだよね。

    buddha-3.jpg

     

    僕は、いつも、、、

    皆さんから「本当に坊主?」と言われるんだけど、

    一応、ちゃんとした仏教学を勉強しているので、

    正しいのは、僕なんだけどなぁ、、、と、、、

     

    でも、世の中のお坊さんは誰も、、、

    死んだ人にお経を唱えても功徳が無い!なんて

    誰も言わないよね。

    仕方ないかぁ、、、、

     

    が、しかし!

    お釈迦様は、

    亡くなった人にお経を唱えても、

    功徳なんて「まったく無い」と

    ちゃんと、キッパリと書き残しているんです。

     

    なのに、

    皆、それをちゃんと伝えないんだよなぁ、、、、

    江戸時代 300年間に根付いた文化の壁は厚い、、、

    buddha-1.jpg

     

    そうそう!

    そもそも、お仏壇だって、

    仏教本来の祀り方は、[仏]と[お位牌]は、別々に祀ります。

    [神様] ⇒ [神棚]

    [仏様] ⇒ [仏壇]

    [ご先祖様] ⇒ [祖霊社(廟)]

     

    今のように、

    中央に[仏]を祀って、下段に先祖のお位牌と

    亡くなった方のお位牌を置くこと自体が

    [日本独特]の文化であって、

    仏教の配置ではないんです。

     

    ちなみに、

    仏教では、仏教内の各部(考え方の派閥の様なモノ)によって

    多少の差異あるとしても、

    基本的には、人が亡くなると49日で[生まれ変わる(転生)]するので、

    一周忌〜三十三回忌(百回忌まで含む)の各回忌や、

    お盆の行事やお彼岸などのそのほとんどが[祖霊信仰(先祖崇拝)]の行事です。

    ちなみに、仏教でも盂蘭盆会や彼岸の行事はあるけれど、

    一般的に行われている行事内容とは、その内容がまったく違うんです。

    buddha-5.jpg

     

    今日は、疲れました!

    では、寝ることとする。

    [死]の後のプロセス[2]

    2018.11.25 Sunday

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      仏事話題が連続しているので、

      途中、歴史やメダカや自転車の話題なども

      盛り込んじゃえ!と考えている

      僕が【家主】の中山手 線です。

       

      前回と前々回に、

      四十九日までをアップすると書いたんだけど、

      翌々考えたら、あちらの時間軸とこちらの時間軸の差異があり、

      こちらの時間軸だと98日、俗にいう百箇日法要までになります。

       

      つまり、今回、あちらの世界の[1日目]なんだけれど、

      こちらで書くと[7日目]ってこと!なんだよね。

      ちょっと長いから、途中で切れあげるかもしれません。

       

      という事で、

      それでは、あちらの世界へ!

       

      [一日目:初七日]

      この死の後のプロセスである[初日]以降は、

      亡くなった方に密教修行者(僧)が語りかけ、

      そして導いていく内容になっております。

       

      一般的には、

      亡くなる方が、危篤状態になった時、亡くなった時、亡くなった後の

      それぞれの法要(初七日から九十八日まで)の導き(内容)を

      前提としていることをご理解ください。

      ※密教では、本来、危篤状態になった時から死後の再生までを導く役割が僧であり、

       その僧を[導師]と呼ぶのが正式なのですが、現在に至るにつけては、

       葬儀から各回忌法要のみとなり、それはそれで時代の変遷としか、、ですです。

      黒(漆黒).png

       

      さて、本題に入ります!

      身体から魂(気と意識)が分離した後

      血と肉で構成されている身体が無いことに気づかず、

      まだ、夢の中に存在している勘違いをしたまま

      自身が死んだことを自覚していない死者は、

      想像を絶する大音響幻影強烈に輝く色とりどりの光に恐れ、

      そして、失神した後の目覚めから始まる

       

      それは、果てしなく広がる漆黒の暗闇の中で、死者を呼ぶ声が聞こえてくる。

      身体と魂(気と意識)が分離する前に見た[死の光明]に至るまでに、

      死者は自分の名前すら忘れてしまっていたにも関わらず

      生前からの習慣の蓄積である習気で、死者自身の名前に反応してしまう

       

      そして、死者は聞こえてくるその声をたどりながら、

      今、自身が存在する場所となぜそこに自身が存在しているのか?を考え始める。

      漆黒の月空.jpg

       

      「善い人よ、善い人よ。

      汝のことである。

      六日半の間、汝は失神していたのである。

      失神から目覚めると、自分には何が起こっていたのだろうか?

      という想いが生ずるであろう。

      汝は今、生前に見た「夢の中に存在している」のではない。

      「死と再生のハザマにある空間に存在している」と覚るべきである。

      その空間の中では、輪廻の進行が反転し、

      ありとあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現れるであろう。」と、

      その声は、繰り返し語りかけてくる。

      地平線に光.jpg

      そうするうちに、漆黒の闇の中から[紺青色の光]が小さな星のように輝きだし、

      そして、だんだんと大きく光り輝きだしてくるであろう。

      この時に、紺青色に輝いている光の中央から、

      尊いお方である大日如来が白色の身体をして獅子の背に座し、

      手には八輻の輪をかざして、

      女尊である虚空界自在母と汝の方へ向かって現れてくるであろう。

      アンドロメダ星雲.jpg

       

      大日如来虚空界自在母の男女両尊の心臓からも放出されている新たな光

      それは意識の集まり(識薀)から生じた光であり、仏の叡智である光である。

      その光は、清浄かつ明瞭で光沢があり、汝を眩惑させるように強く輝きだし、

      そして汝の目の前へと迫ってくる。

       

      目の前に迫ってきた紺青色した光は目が痛くて、

      とても直視できないほど強烈な光であると同時に、

      この大日如来虚空界自在母の強烈な光に伴って、

      その周りには、天界に存在する諸天諸尊の眩惑させることのないほどに

      微弱な白色の薄明かりも汝の目の前に近づいてくるであろう。

      土星.jpg

       

      この時、汝は[生前からの悪い業の力]に影響されて、

      強烈に光り輝く紺青色した仏の叡智である光明に対しては、

      恐れが生じ、恐怖を抱いて、後ずさりをし、逃げ出すであろう。

       

      しかし、汝は、天界に存在する諸天諸尊の眩惑させることのないほどに

      微弱な白色の薄明かりの方には、喜びの想いが生じ、近づくであろう。

       

      しかし、この時、汝は、心を乱すばかりに明るくて、

      眩惑させるばかりの強烈に輝く最高の叡智であるこの紺青色の光明に

      おののいてはならない

      怯えてはならない

      これは大日如来の光明であり、

      仏の世界の叡智である。

      これに敬慕の気持ちを寄せるべきである。

      青い星空.jpg

       

      これは尊いお方である大日如来の慈悲の光明である」と考えて祈念するが良い。

      これは尊いお方である大日如来が[死と再生のハザマという空間]に存在している汝と

      お会いになる為においでになったのである。

       

      これは大日如来の慈悲の光明である。

      天界に存在する諸天諸尊の眩惑させることのないほどに

      微弱な白色の薄明かりの方に喜びを抱いてはならない。

      こちらに執着してはならない

      貪りを求めてはならない

      これに執着した時には、天界に存在する諸天諸尊の境涯にたどり着いて、

      その後は地獄界餓鬼界畜生界阿修羅界人界天界六道に

      輪廻することになるであろう。

       

      この薄明かりは

      解脱の道を妨げる邪魔ものであるので、

      これに眼を向けては見てはならない

       

      強烈に輝く紺青色した眩惑させるばかりの

      光明の方に敬慕の気持ちを寄せるべきである。

       

      大日如来の方に強く求め、願う気持ちを向けるべきである。

      そして、次のような祈願の言葉を導師である私の後に従って繰り返すが良い。

      「ああ、私が自分の持つ根強い無知の為に輪廻し、彷徨っている間に、

      仏の世界の叡智の明るい光の道に、

      尊いお方である大日如来がお導きくださいますように。

      そして、虚空界自在母が私の背後から支えてくださり、

      恐ろしい[死と再生のハザマにある空間]を

      越えさせて下さいますようにお祈りいたします。

      どうか私を正しくて完全な仏の境地へとお連れくださいますように」

      と激しく熱心に、この祈願の言葉を唱えることによって、

      汝は大日如来両尊の心臓の中に虹の光となって溶け入り、

      曼荼羅の中央の密厳浄土において、生縁を得て、仏となるであろう

       

       

      ここで自らの死を覚り、

      大日如来虚空界自在母の両尊の光に溶け入ると

      死者は虹色の光となって密厳浄土に再生し、

      かの地で生縁を得て、仏となることできる!らしい。

       

      が、この初七日で自らの死を覚ることができるのは、

      密教の修行をしていた僧か、

      密教徒だと書かれている。

       

      理由としては、

      大日如来と虚空界自在母の光が

      紺青色であることを知っているからと書かれている。

      また、天界の諸天諸尊の白い薄明かりに近づいてはならない!

      ということを知っているからだと書かれている。

       

      普通の人は、この初日で紺青色の光から逃げたとたんに、

      大音響と幻影などが出現し、

      また失神してしまうらしい。

       

      重要なのは、

      ここに書かれていることを想像し、

      自分の夢の中で体験することなのだ!

       

      それを幽体離脱というのだけれど、

      体験は可能なのだ!

       

      是非、体験して頂きたい!

       

      何度か体験すると、

      体験したアナタは、

      迷わず初七日で再生できます!

       

       

       

      にしても、

      サンスクリット語の直訳を

      解りやすい日本語に置き換えて、

      日本語になっているのか?確認しながら修正する作業は、、

      大変だぁ!!!

       

       

      次回は、[2日目:14日目]です!

      では、寝ることとする。

      [死]の後のプロセス[1](補足)

      2018.11.23 Friday

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        寒くなると、法事の方が忙しくなる

        僕が【家主】の中山手 線です。

         

        僕自身も[あちらの世界へ行く時期]が迫ってきているので、

        このブログを書きながら、調べながら、修正しながら、、、

        まったくもって他人事ではない!と、つくづく思う次第です。

         

        早速ですが、

        このことは書かかずに、

        次をアップしようと思っていたんだけど、

        案の定、Wifeに質問されたので、

        やっぱ書かないとダメだなぁ、、、と

         

        でも、ある種、、、

        宗教論争になっちゃうなぁ、、、と

        が、僕なんて有名人などではないので、

        書いちゃっても、大丈夫だろうと思いなおし、

        素直に、正直に書いていきますね。

         

        という事で、

        前回の続きである[初・七日]に入る前に

        亡くなる前提というか、、、

        亡くなった時の条件を記します。

         

        はい。

        仏教徒であれ、他の宗教の信徒であれ、

        生前に戒名(生前戒名)クリスチャンネーム等が与えられ、

        かつ、自分が亡くなった[その時]に備え

        日ごろ、導師より「死んだ時の心得」を教えられていると思うので、

        その場合は、初・七日まで、遅い人でも二・七日目までには

        自身が死んだことが自覚できる為、自覚できない人に比べ、

        この再生するまでの苦しみを味わう期間は非常に短いと思われる。

         

        が、神や仏、宗教などに興味のない方々は、

        自身が亡くなったことを自覚できない為、

        最長の七・七日目(四十九日)まで苦しむこととなる。

        と言うか、苦しむ方が多いという。

         

        ただ、理解して頂きたいのは、

        戒名やクリスチャンネーム等という属する宗教上での名前は、

        亡くなった以降の名前(あちらの世界での名前)ではないという事なのだ。

        ここは現世で一番大切な文面だと思われる

        もう1度、書きます。

        戒名は、

        あちらの世界での名前ではありません。

         

        その理由としては、

        密教経典に書かれているのは、

        人が亡くなってから、

        自身が亡くなった事を覚らせるために、

        七日毎に仏が七回現れる(四十九日)のだが、

         

        その時、仏たちは、亡くなった方の名前を呼ばれる。

        それは亡くなる前に与えられた戒名ではなく、

        クリスチャンネームでもなく、

        もちろん、亡くなった後に与えられた

        戒名やクリスチャンネームなどではない。

         

        生前の名前である

         

        つまり、戒名やクリスチャンネーム等というモノは、

        どちらかの宗教に属し、亡くなった時の状態を学んだの証であり、

        亡くなってから再生するまでの流れる時間や

        あちらの世界での魂(気と意識)の支えになる為、

        自身は亡くなったと覚ることができる!ということなのである。

        つまり、苦しみ、彷徨う時間が非常に短くなるということなのだ。

         

        密教経典曰く、

        亡くなってから与えられる戒名は

        与えられても意味はなく、

        それによって輪廻からの解脱はない

        また、与えられたことに起因する結果などもない

        亡くなってから与えられる戒名は、

        与えられていないことと同じことである。

        とのことなのだ。

         

        ただ、密教ではそうでも、

        顕教では、

        死後戒名は、

        生前戒名と同等の功徳がある!

        とされている。

         

        同じ大乗仏教とはいえ、

        密教と顕教では、

        死後の世界がかなり違う。

         

        密教では、地獄での[針の山]や[血の池地獄]などはない

        自身の死を覚るまでの彷徨いや苦しみ、恐れの葛藤を地獄という

        また、再生した時、どうして前世の意識(記憶)がないのか?も説明されている。

        ※前世の意識(記憶)がある人もいるとも説明されている。

         

        そこは、後日、段階を踏んで記載するけれど、

        同じ大乗仏教でありながら、密教と顕教の解釈には大きな隔たりがあり、

        どちらも勉強するわけなんだけれど、

        僕的には初段で学んだ顕教よりも、

        最終段階で学ぶ密教の解釈の方が、

        僕の考えにあっており、疑問点もないことから

        こちらを信じております。

         

        まぁ、そんなことはおいておき

        大切なことは、

        残された家族の方々が

        三宝(仏・宝・僧)へ帰依することは、

        亡くなった方への廻向となり、

        非常に大きな功徳となる為

        亡くなった後でも、

        故人の戒名を得、

        故人へ送ることは、

        とっても大切なこと!

         

        それと、

        より重要なのは、

        自身が亡くなったことを

        自身で自覚すること!

         

        亡くなった方が自分の死を自覚するまでは、

        恐れと苦しみの時間が流れ、

        七・七日目(四十九日)経っても自覚しない場合は、

        七日ごとに自分が死んだことを覚らせてくれる仏も現れない。

         

        亡くなった方は、

        無限に続く苦しみの時間軸(無間地獄)へ再生し

        自身が亡くなったことを自覚することは永遠にない

         

        苦しみと恐れに彷徨い続け、

        その時間軸から出ることはない。

         

        その時間軸から抜け出せるチャンスがあるとすれば、

        ご遺族の方々の功徳をもって

        地蔵菩薩の出現を待つほかはない。

        が、その地蔵菩薩が現れ、諭され、

        それでも自身が亡くなった事に気づかない場合は、

        その時間軸から抜け出すことはない。

         

        蓮の花2_RR.jpg

        戒名の件や地獄とは?などなど、

        ついつい皆さんもご存じだと勝手に思ってしまい、

        説明が抜けることが多いので、

        本当に申し訳ないです。

        こちらを先にアップすれば良かったですね。

         

         

        次回は、必ず、初日(初七日)をアップします。

        では、寝ることとする。

        [死]の後のプロセス[1]

        2018.11.18 Sunday

        0

          ・・・・・・・・

          僕が【家主】の中山手 線です。

           

          早速ですが、

          危篤状態であったWifeの叔父さんが、

          約2ヶ月の間、懸命に頑張ったにも関わらず、

          あちらの世界へ旅立っていきました。

           

          叔父さんの魂(気と意識)が身体から離れた瞬間から

          四十九日までの間に何が起こってるのか?

          叔父さんの魂(気と意識)は、何処へいくのか?

           

          密教に帰依する徒として、

          僕の知りうる限りの知識を書き綴り、

          Wifeの[悲しみ]と[不安]を助ける一助になれば!と思いながら、

          過日にアップしている[死に至るプロセス]の続編となる

          [死の後のプロセス]として初七日×七日(四十九日)までを

          できるだけ解りやすく説明していきたいと思います。

          ※前回の[死に至るプロセス]は専門用語が多すぎて

           解りにくかったとの事なので、、、

           

          蓮の花2_RR.jpg

           

          [死に至るプロセス:死の光明]の後

           

          日本では[魂]と呼ばれる[気]と[意識]が身体から離れた時、

          つまり、[死んだ]は、[極善の人]と[極悪の人]には、

          初七日および七日ごとの中陰、

          つまり四十九日間の中陰は存在しない

           

          [極善の人]は、

          死と同時に極楽浄土の蓮華台の上に再生し、

          五逆の大罪を犯した[極悪の人]は、

          死と同時に地獄に再生すると言われている。

           

          [極善の人][極悪の人]でない

          [普通の人]

          初七日から始まり、

          七日ごとに次々と生縁(再生する縁)が決まってゆき、

          最長でも死後四十九日目までには、

          すべての死者に次に再生する生縁が決定する

          と言われております。

           

          さて、

          その様な中で、自身の気と意識が身体から離れ、

          自分が[死んだ]ことを自覚できない[普通の人]に待ち受けている

          七日ごとの中陰について記載してみることにした。

           

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          [初日(死んだ日)]

          死者自身の気と意識が身体から離れた時、

          つまり、死んだ時、この時には親族たちの鳴き声や悲嘆の声、

          彼らが相談している会話の内容などが鳴り響き、

          死者は立ち上がって傍に駆け寄り話しかけるが、

          彼らは見向きもしてくれない。

           

          死者の側から彼ら親族たちを見ることはできるが、

          彼らがこちらを見ることはできない。

          彼らが自分(死者)に呼びかけているのを聞くことはできるが、

          こちらから呼んでも彼らには聞こえない。

          そして、死者は憂鬱な気分になる。

           

          死者が憂鬱な気分になった後、

          死者には大音響と色彩と光明の三つの現出があり、

          死者は恐怖畏怖戦慄三つによって失神させられてしまう

           

          死者の意識が身体から離れる前、

          つまり、死者が生きていた時に作り上げられた[心の習慣とその蓄積]は、

          彼が死んだ段階では、死者の身体(意識の身体)となるのだが、

          それは実質をもった血肉の身体ではなく、

          意識としての身体にすぎないことを死者は、まだ自覚できない

           

          従って、死者は、もう死ぬことがないにも関わらず、

          死者の気と意識が自身の身体から離れたことを自覚できなかった人には、

          大音響と色彩と光明の3つからなる幻影が現れ、

          そして、迫り、死者は、それを死者自身の投影であることに気づかずに

          恐れおののき、畏怖と戦慄によって、何度、々も失神させられてしまう。

           

          密教では、

          この段階、

          つまり、自分が死んだことを自覚できていない段階では、

          この世に執着心や希求心(貪り)をおこしてはならない。と教えている。

           

          つまり、[死の光明]に至るまでに

          浄化されたはずの心の働きである

          生に対する執着心や希求心(貪り)が蘇るらしいが、

          例え、この世の生に執着や希求を起こしたとしても、

          死者は、この世に留まることは

          不可能であることを自覚しなければならない。

          が、自分が死んだことを自覚しない場合は、

          恐れと畏怖と戦慄の状態の中で、

          彷徨いつづけるよりほかはない。

           

          かつ、この恐れと畏怖と戦慄の状態の中では、

          過去の業が浄化されることはない。

          自分が死んだことを自覚するまでは、

          繰り返し、繰り返し、

          この苦しみの中を彷徨い続けるほかはない。

           

          その状態の中で、

          現れてくる幻影が何であったとしても、

          すべてについての恐怖、畏怖、戦慄は

          自分自身の意識の投影したものであると確実に覚ることが大切な要点である。

          それを忘れてはならない。

          と教えは、強調している。

           

          善い人よ。

          汝の心と身体が離ればなれになる時、

          汝の存在本来の姿の純粋な現出があるであろう。

          その現出は微妙であり、色彩と光に満ち溢れている。

          光輝に光り輝くであろう。

          その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものではあるが、

          これを恐れてはならない。

          おののいてはならない。

          怯えてはならない。

           

          これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現れであると覚るべきである。 

          そして、この現れを覚ることができなかった場合、

          死者は、その大音響と色彩と光明の3つの本質を覚ることができずに輪廻し、

          彷徨いはじめることになる。

           

          つまり、初七日へ向かっていくのである

           

          亡くなった者も、残された親族たちも、

          言葉では言い表せないほどの悲しみと辛さではあるけれども、

          亡くなった者がこの世に留まることは不可能であることを受け入れ、

          残された者たちは、

          亡くなった者が最長である四十九日までの間、

          あらゆる幻影に苦しむことなく

          できるだけ早い段階で、再生する生縁が決まるよう

          手をあわせ、苦しむことなく浄土へ向かうように!と

          心から願ってあげてほしい

          廻向してあげてほしいと思う。

           

          初七日から四十九日までの間、

          七日ごとに司る仏様が違う[十三仏]という信仰があるけれど、

          現在、自分自身が信仰している仏様でも、

          過去からの馴染みある仏様でも良い、

          思い浮かばない方は、[観世音菩薩]で良い。

          まずは、手をあわせ、

          同時に、仏の名前を唱え、

          次に、亡くなった方の名前を唱え、

          そして、「迷うことなく浄土へ向かいますように!」と

          小声で良いので、声を出して唱えて下さい。

           

          仏様も

          亡くなった方も、

          こちらの声は聞こえますから

          功徳になるはずです!

           

           

          次回は、

          亡くなってからの1日目を書きます。

          では、寝ることとする。

          [死]に至るプロセス[空性について]

          2018.10.16 Tuesday

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            ようやく、[死に至るプロセス]の解説は終わったと思い、

            再度、自身の理解のために読み直してみたんだけれど、

            一番大切な[空性]についての解説をしていなかったことに気づき、

            この[空性]について説明をしておこうと考えた次第です。

             

            さてさて、

            まず、仏教では、密教に至る前を顕教と呼び、

            と言うよりも、顕教を修学した後に、密教を学ぶと書いた方が正しい。

            また、顕教では、その基本的教理は[無]としているが、

            密教では、[空]を基本的教理としていることを

            まずは、認識しておいて頂きたい。

            日本では、真言宗と天台密教以外は、すべて顕教とされている。

             

            例えば、

            テレビや映画や本、雑誌などでは、

            悟りを得る為には[無]にならなければならない!

            なんて表現されているが、それは顕教でのこと。

             

            そして、顕教も[空性]については勉強するが、

            特に、密教では[空性]を理解する!ということが重要とされている。

            有名なところでは、「色即是空、空即是色」である。

             

            過去のブログにアップしている[般若心経の訳文]にでてくる一説だ。

            [色]は、[色事]や[色情狂]などの意味ではなく、単に[形]という意味。

            西遊記に登場する[玄奘三蔵法師]が[般若心経]を翻訳された時、

            サンスクリット語の言葉の意味合いを考慮し、

            []という漢字を使わずに、[]という漢字を使ったと言われている。

            従って、

            色即是空、空即是色」の意味に無視して、

            端的に現代の漢字で書きなおすと

            形即是空、空即是形」となる。

             

            サンスクリット語を直訳した経典の意味としては、

            形あるものは、依存しており、

            依存しているものは形あるもの」と僕は訳したが、

             

            [空性]本来の意味を考えて書くのであれば、

            「形あるものは、依存して生まれ、

            依存して生まれるものは、形あるもの」となる

             

            これを僕なりに、より解りやすく書くとすれば、

            「形あるものは、見る者によって依存して変わり、

            見る者によって依存して変わるものは、形あるもの」となる。

            つまり、[]ではなく、[]という漢字を当てはめた方が正しくなる。

             

            例えば、

            パソコンが1台あるとしよう。

            ある人は、自分はパソコンでゲームをしているので、

            このパソコンの持ち主に「ゲームしてる?」と聞くだろう。

            でも、別の人は、表計算をするためにパソコンを使っていた場合、

            彼は、パソコンの持ち主に表計算の質問をするだろう。

            また、別の人は、映画をパソコンで見ている場合、

            彼は、パソコンの持ち主に「ディスプレイは

            大きい方が良いね!」と話をするだろう。

             

            つまり、パソコンでゲームをしている人は、

            パソコンを見るとゲーム機だと思い。

            また、ある人は、表計算をする機械だと認識し、

            また、ある人は、映画を見るモニターだと思うのと同じように、

             

            同じモノを見ても印象が違うのは、

            パソコンが見た者1人の一方的な認識で成り立っているモノではなく、

            また逆に、見た者1人の認識のみが正しいモノでもない。

            つまり、形は、見る者に依存して認識されるという事。

            また、その認識がそのモノを存在させているという事。

             

            という事は、パソコン本来の[本質]が

            見る者によって、その様な認識を与えるというのではなく、

            その存在の[性質]が、その様な認識を与えるということ。

            []ということなのだ。

             

            それが[色即是空、空即是色]の意味であり、

            [空性]の性質ということなのだ。

             

            そのことを踏まえて鑑みてみると、

            肉体が衰弱し、そして、その肉体を喪失した後、

            残された自身の[意識]と[]から

            [自性の分別の80の心]で失い、

            次に、[真っ白に現れた心]で喪失し、

            次に、[真っ赤に輝く心]でも喪失し、

            次に、[真っ黒に近づいた心]で喪失し、

            最後に、[死の光明]を迎えた時、

            [根源的な気]と[根源的な意識]は、覚醒するのではなく、

            [空性]本来の性質に戻るのではないのか?

            ・主観と客観の対立から離れた状態

            ・認識される側と認識する側を混ぜた渾然一体となった状態

             

            つまり、[死の光明]とは、

            [空性]そのものの姿

            [空性]そのものの性質

             

            という事は、

            自身の生きてきた人生の中での

            [心の動き(行ってきた行為)]を考えた場合、

            いや、すべての心の動きを喪失した後に

            残った自身の[]と[意識]は、

            [死の光明]という[空性]を見ることで、

            自身の行ってきた[善業である行為]と

            自身の行ってきた[悪業である行為]の

             

            どちらが写し出されるのか?

             

            転生できるのか?

            もしくは、輪廻の渦に入って、

            長い苦しみの時間を迎えるのか?

             

            そういうことだったのか!

             

            あっ、すみません!

            なんか思いっきりマジに書いてしまった。

            もう、遅いので書き直しするのをやめて寝ることとします。

            [死]に至るプロセス[4]

            2018.10.15 Monday

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              (2)真っ白に現れた心

              粗い心である自性の分別の80の心が喪失し始めた時、

              つまり、行蘊グループの5つの要素が喪失し終わった時に、

              心には[燈明を燃やすようなもの]と呼ばれるビジョンが現出する。

              そして、自性の分別の80の心が喪失し終わった時、

              秋の夜、雲一つない中で、月光によってあまねく満たされた[虚空]のような

              とても澄み切った清浄な白いビジョンが心に現出する。

              ※虚空とは、

               何もない[空(から)の状態]をいい、

               同時に様々な(妄想)や(迷い)のない心の状態を示す。

               つまり、障害物がないから空を見ることができるという事を例えにすることによって、

               粗い分別の無い、微細な心を認識できることを象徴的に示している。

               

              これが[真っ白に現れた心]である。

              このようなビジョンが現れる縁、

              つまり、きっかけになったのは、(母の)胎内における次のようなできごとである。

              胸より上の左右の脈管のすべての[]が、

              中央脈管の上の穴から入ったことで、頭頂にある左右管の結び目がほどける。

              頭頂の左右管の結び目の位置には、脈管がたくさん集中している気円がある。

              この気円の中には、父親から得た白い体液の一部が入っている。

              この体液は、水の性質をもっていて、左右管の結び目がほどけたことで、

              高きから低きへ流れる水の性質によって中央脈管を下っていき、

              胸にある6つの結び目の上まで来る。

              その間に、心には先に述べたような光景が現れるのである。

              この[真っ白に現れた心]を別名、[顕明]あるいは[]と呼ぶのである。

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              (3)真っ赤に輝く心

              この[真っ白に現れた心]、すなわち[顕明]が喪失した時、

              [真っ赤に輝き]と呼ばれるビジョンが現出する。

              それは、雲一つない秋の晴天を太陽の光が遍く満たしたような[顕明]よりずっと清浄で、

              晴朗なビジョンといわれている。

              このようなビジョンが発生するのは、次のようなできごとによってである。

               

              まず、胸より下の左右脈管のすべての[]が

              中央脈管の下の穴(性器の先端)から入ったことで、

              性器のつけ根にある左右管の結び目がほどける。

              次に、臍(ヘソ)の位置に重要な気円があるが、

              この中には母親から得た赤い体液が存在している。

              これは火の性質をもち、左右管の結び目が解けたことにより中央脈管を上昇していって、

              胸にある6つの結び目の下にまで到達するのである。

              この間に、[真っ赤に輝く心]を別名、[顕明増輝]、あるいは[甚空]と呼ぶ。

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              (4)真っ黒に近づいた心

              [真っ赤に輝く心]が喪失したすぐ後に、

              [真っ黒に近づいた心]と呼ばれるビジョンが現出する。

              それは秋の晴天の日の黄昏時に、厚い暗黒が満ちたようなビジョンだ。

              このビジョンが発生するきっかけとなったのは、

              体内における次のようなできごとである。

               

              中央脈管の中で上からの[]と下からの[]が胸まで届いたことにより、

              胸の6つの結び目をほどいて、上からは白い体液を下ろし、

              下からは赤い体液を上に押し上げるのである。

              中央脈管の胸の位置にある気円の中には、

              [根源的な粒子(上半分は白、下半分は赤)]がある。

              この粒子に、上からの白い体液と下からの赤い体液がわずかに触れることを

              きっかけとして、前記のようなビジョンを心に現出させるのである。

              この[真っ黒に近づいた心]を[近得]、あるいは[大空]と呼ぶ。

               

              [近得]の状態は、しばらくすると消失し、一切何も心には現れない。

              卒倒した時に突然視界が閉ざされるような感覚に似た[暗黒の状態]になる。

              この時は、最後に残った[とても微細な意識]が喪失してしまったことを意味している。

              [根源的な粒子]の中にある[最も微細な意識]と[]、

              すなわち根源的な[意識]根源的な[気]と言われるもの、

              (わかりにくければ、ずっと過去から存在し、

              来世へと続いて行く[]のようなもの)が活動を開始するまで、この状態は続く。

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              (5)死の光明

              中央脈管の上下から赤と白の体液がそれぞれ[根源的な粒子]に溶け込み、

              中央脈管内に入ってきたすべての[]が、

              その中にある根源的な[]に溶け込んだ時、

              今まで眠っていた根源的な意識が覚醒する。

               

              この時には、秋の晴れた空において、

              今まで現れた月光・日光・暗黒という光明の段階の汚れた3つの縁を離れた

              [虚空]そのものの色、まさにそのような晴朗で非常に清浄なビジョンが現れる

               

              それは空性を直感的に理解した時の

              主観と客観との対立を離れた状態によく似ていて、

              認識される側と認識する側が、

              水に牛乳を混ぜて乳白色になっていく過程の色のように

              渾然一体となっていく状態であるといわれている

              このことを[死の光明]と呼び、一般的には[一切空]といわれている状態である。

               

              [死]とは、まさにこの時を言う。

               

              この光明を体験している間は、死後硬直はせず、肉体は腐ることがない。

              それは、通常、この状態で3日くらいとどまるが、

              普通の人は、このとどまる期間は、数秒であったり、3日間であったり、

              7日間であったり、それは人それぞれで異なる。

               

              時間がたち、鼻血を流し、体液が放出されると、

              この状態が終わったことを示す兆しである。

               

              しかし、病気で体力がとても衰弱した人は、

              何日たっても、この兆しが現れないことがある。

              また、高い境涯に到達した無上瑜伽の修道者は、

              [死の光明]を仏の法身に融合させることによって、

              3日間よりずっと長い間とどまるケースもあるようだ。

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              この一定期間を経た後、

              古い肉体に残されていた根源の意識とともにある[]がわずかに震える

              そして、震えることによって、その瞬間に光明は破られ、

              胸の中央脈管の中にある[根源的な粒子]は、

              白と赤の半球体を合わせた球形のものの口を開き、

              [根源的な意識]と[]は外へ出ていくのである。

              そして、その時、この古い肉体は捨てられ、

              新たに中有の身体が誕生する。

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              これ以降の中有の身体が誕生した[意識体]は、

               普通の人であれば、その習気(習慣)のせいで、輪廻の主体が浄化されず、

               次の新しい生を得るまでの49日間、この中途半端な苦しい中有の状態が続く。

               そして、次の生を模索する彷徨が終わると、最終的に次の新しい生を得て、

               次のプロセスへと転生(意識の移し変え)をすることとなる。

               

              一般的に、この段階で[]に至り、

              お通夜をはじめ葬儀が営まれ、

              そして、火葬場へと向かうわけだけど、

              実際は、この段階に至るまでの事象よりも、

              ここからの事象[中有の状態]から意識としての苦しみが始まる。

               

              が、それはタイトルの通り、

              [死に至るプロセス]ではなく、

              [死の後のプロセス]になるので、

              アップすることはやめておくこととする。

              ※仮に、叔父さんが亡くなった場合は、

               亡くなった後は、どの様なプロセスで、

               どこへ向かうのか?をWifeに伝える為にアップするかもしれないが、、、。

               

               

              では、寝ることとする。

              [死]に至るプロセス[3]

              2018.10.15 Monday

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                (5) 識蘊グループの衰え

                行蘊グループが衰えた段階で、同時に[粗い25のもの]のうち、

                [識蘊]、通常の人の[法界体性智]、六処の中の[]など、

                要するに[意識]に関わるもの以外のすべての要素は失ってしまうのである。

                そして、死に至る過程もここから更に深いところに入ってくる

                その初めの段階として、識蘊グループの5要素の分類と解説をする。

                 

                また、ここで使われている言葉は、

                そのほとんどが密教独自の術語である為に、

                多少受け入れにくい点が多いかもしれないけれども、

                実に巧妙に心に起こる現象を言葉として置き換えたものなので、

                その意味合いを素直に受け止めながら解釈し、読み進めて頂きたい。

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                識蘊グループの5つの要素とは以下のモノをいう。

                (1)自性の分別の80の心

                (2)真っ白に表れた心

                (3)真っ赤に輝く心

                (4)真っ黒に近づいた心

                (5)死の光明

                 

                これらの5要素は、これまで分類解説してきた各グループの5要素とは違い、

                同時に衰弱することはない。

                これらは、(1)⇒(2)⇒(3)⇒(4)⇒(5)の順で、

                心に現れてくるものである。

                 

                これらは、真の死に近づく過程であると同時に、

                粗かった心の意識が順に消滅していくことで、

                次第に細微な心の意識になっていく過程を分類し、かつ、解説しています。

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                (1) 自性の分別の80の心

                ●以下、33の心は、

                 [真っ白に現れた心]に深く関係している心

                ・望まない対象を嫌う大中小の3つの心の働き

                ・好きなものと離れることを悲しむ大中小の3つの心の働き

                ・落ち着いた冷静な心と、喜びの2つの心の働き

                ・好きでないものに恐怖を感じる大中小の3つの心の働き

                ・愛着のある対象に執着する大中小の3つの心の働き

                ・五官の欲望を満たし、それを保ち続けたいと思う心の働き

                ・善に対して疑いをもつ心の働き

                ・飢えと渇きを満たしたいと思う2つの心の働き

                ・楽、苦、そのどちらにも偏らない中道の感覚をもつ大中小の3つの心の働き

                ・理解する人、理解する行為、理解されるものを分別できる3つの心の働き

                ・合理、不合理を吟味する2つの心の働き

                ・罪を恥じる心の働き

                ・他の人が苦しみから離れることを望む慈悲の心の働き

                ・愛する者を守ろうとする慈しみの心の働き

                ・愛する者に会いたいと願う心の働き

                ・何かに対して疑惑をもつ心の働き

                ・ものを集めたがる心の働き

                ・他人の成功を憎む嫉妬の心の働き

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                ●以下、40の心は、

                 [真っ赤に輝く心]に深く関係している心

                ・得たいと思っても得ることができない対象に執着する心の働き

                ・単純に得た対象に執着する心の働き

                ・快適な対象を見ることによって生ずる大中小の3つの喜びの心の働き

                ・目的が成就したことによる安楽の心の働き

                ・繰り返し、何度も何度も、その良さを考える心の働き

                ・以前なかったものを見る時の心の働き

                ・ものを失くしたときに感じる落胆の心の働き

                ・対象に満足する心の働き

                ・抱擁と接吻と触れ合いをなしたいと思う3つの心の働き

                ・心変わりの無い心と、良いことに専念したいと思う心と慢心の3つの心の働き

                ・仕事を成功させようと思う心の働き

                ・他人の宝を奪おうとする心の働き

                ・他人を打ち負かそうとする心と、そのことを努力しようとする心の2つの心の働き

                ・傲慢さによって、悪いことをしようとする大中小の3つの心の働き

                ・意味もなく聖者に対して言いがかりをつけようとする心の働き

                ・好ましいものを見ることで快楽に耽ろうとする心の働き

                ・仇を恨む心の働き

                ・善い行いをしようと努力する心の働き

                ・他人が理解してくれることを望む心の働き

                ・どんなことも正直に言いたいと思う心の働き

                ・真実でないことを言いたいと思う心の働き

                ・誓いを固いものとする心の働き

                ・何か感情を傾ける対象をもちたくないと思う心の働き

                ・財を捨てようとする心(布施の心)の働き

                ・怠惰な者にやる気を出すように促したいと思う心の働き

                ・敵に勝ちたいと思う心の働き

                ・悪いことをあえて避けず、行おうと思う心の働き

                ・ねつ造して欺こうとする心の働き

                ・劣悪なものの見方を好んでする心の働き

                ・ほかを軽蔑する心の働き

                ・不正直な心の働き

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                ●以下、7つの心は、

                 [真っ黒に近づいた心]に深く関係している心

                ・対象を欲しがったりもせず、欲しがらないこともしない中道の心の働き

                ・健忘によって記憶が弱まる心の働き

                ・陽炎を水と識別してしまうような心の働き

                ・ものを言いたがらない心の働き

                ・何事においても煩わしく感じる心の働き

                ・怠情な心の働き

                ・そうであるか、そうでないかと思う疑いの心の働き

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                [自性の分別の80の心]とは、

                意識の働きだから、その思いの強さには、強弱がある。

                また、その乗り物である[]をいつも伴う。

                そして、その[]の強弱によって3つに分類された心が下記の心となる。

                ・真っ白に現れた心

                ・真っ赤に輝く心

                ・真っ黒に近づいた心

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                日常の様々な心のあり様を生み出すこの3つの意識は、

                とても微細である為、通常は様々な粗いレベルの心の陰に隠れてしまい、

                認識することはできない。

                しかし、眼根などの五根が機能を失い、

                粗い80の分別が喪失した後、最後に残った意識として、

                死にゆく者の前に明瞭にその姿は、現れてくる。

                それは[自性の分別の80の心]の[自性]という言葉は、

                その思いの強弱によって、どの微細な意識が原因となって

                生み出されたものなのか?を示す目印である。

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                粗い80の分別である[粗い]とは、[感情]をさし

                [微細な意識]とは、[冷静な意識]の事だと、

                僕は、勝手に解釈しているのだけれど、

                瞑想に入る度に、その解釈で正しいのか?と自問しているのが現状。

                ただ、自問している時は、それぞれの心をさらに分析しなければ、

                自答もできないので、より深く分析しようとすると、

                僕の脳はオーバーヒートしてしまい活動をストップする。

                あっ、寝ちゃってた!

                 

                実のところ、

                僕の場合は、皆と違い、

                [(5)識蘊グループの衰え]の各プロセス]が無く、

                一気に[死の光明]へと飛んでしまうのではないだろうか?と思ってしまう。

                ※実際は、プロセスが飛ぶなんてことはありません!

                 誰もが、必ず、この[死に至るプロセス]のすべてを通って死に至るとの事です。

                 

                だが、そうなると、

                [死の光明]から次の[再生までのプロセス]への間であり、

                一番、苦しく辛い時間の流れと言われている[中有のプロセス]で彷徨し、

                現世での[悪業]が主体となった輪廻に巻き込まれてしまう、、、

                 

                怖いだろうなぁ、、、

                 

                 

                取りあえず、

                寝よっと!

                [死]に至るプロセス[2]

                2018.10.15 Monday

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                  (1)色蘊グループの衰え

                    さて、人間が死に至るプロセスの中で、まず最初に衰弱していくのは、

                   ・[色蘊のグループ]の5つの要素である色蘊

                    普通の人の大円鏡智地界眼根、五境のである。

                   ・[色蘊]が衰えたことを示す外側に現れる兆しとして、

                    手足などが前より少し細くなり、身体が衰弱し、力が無くなってくる。

                  ・普通の人の[大円鏡智]とは、鏡に影像が現れるように、

                   多くの対象が一度の明らかに現出する意識であるが、

                   それらが衰えたことを示す外の兆しとして、眼がすっかり見えなくなる。

                  ・[地界]が衰えたことを示す兆しとして、肉体の大部分が乾燥し、

                   身体の部分部分がゆるんでゆき、地下に沈み込んでいくような感覚が生じてくる。

                  ・[眼根]が衰えたことを示す兆しとして、身体の色彩が悪くなって体力が尽きてしまい、

                   瞼が開閉できなくなる。

                   ・五境としての[]が衰えた兆しとして、身体の光彩が失われていくのである。

                    これらの要素は、ほぼ同時に失っていく。

                  ■そして、以上のものが衰えたことを示す証として、

                   [陽炎の様なもの]と呼ばれる光景が心に現れるのである。

                   それは、砂に春の光が照りつけた時、チラチラと反射するような、

                   水色のきらめきに満ちているような光景である。

                   

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                  次の段階では、

                  (2) 受蘊グループの衰え

                  ・[受蘊のグループ]である5つの要素、すなわち受蘊

                   普通の人の平等性智水界耳根、五境のが同じように衰弱し、喪失する。

                  ・[受蘊]が衰えたことを示す外側に現れる兆しとしては、

                   根識とともにある感覚である楽だとか、苦しい、

                   そのいずれでもない等の三つの感覚を身識で知ることができなくなる。

                  ・普通の人の[平等性智]とは、楽、苦、平等(どちらでもない)の三つを感じ、

                   一種類のものとして認識、理解することのできる知識をいうが、

                   楽、苦、平等の三つがわからなくなる。

                   例えば、胃が痛むとか、胸が苦しいなどの感覚とは違った、

                   幼い子供の将来に対する漠然とした不安からくる心痛などのような

                   苦しみを感受しなくなるのである。

                   ・[水界]が衰えたことを示す兆しとして、唾と汗と尿と血液と体液の大部分が乾いてしまう。

                  ・[耳根]が衰えたことを示す兆しとして、身の内外の音が聞こえなくなる。

                  ・五境のうちの[]が喪失したことを示す兆しとして、

                   耳の内の空気の音(耳鳴り)なども聞こえなくなってしまう。

                  ■以上のものが衰えたことを示す証として、心に現れる光景を、

                   [煙のようなもの]と呼ばれるビジョンが意識の中に現出する。

                   それはまるで、煙が充満している中で、煙突の先より、

                   煙がもくもくとわき出てきて、さらに煙が充満し、

                   空間に藍色の大気が充満していくような光景である。

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                  この後に、

                  (3) 想蘊グループの衰え

                   ・[想蘊のグループ]の5つの要素、すなわち想蘊

                    普通の人の妙観察智火界鼻根、自らの五境のうちのが同時に衰弱する

                  ・[想蘊]が衰えたことを示す兆しとして、父母をはじめとし、

                   妻、子、そして、誰と誰が親族なのかも次第に想い出せなくなる。

                   ・普通の人の[妙観察智]とは、親族などのひとりひとりの名前を思い出す知識をいう。

                   それが衰えたことを示す兆しとして、父母をはじめとする

                   妻、子、そして親族の名前を想い出せなくなる。

                  ・[火界]が衰えたことを示す兆しとして、身体の体温が下がっていき、

                   飲んだり、食べたりしたものを消化する能力を喪失する。

                  ・[鼻根]が衰えたことを示す兆しとして、鼻の穴より息を吸う量が少なくなって、

                   外に吐く量が多くなり、激しい呼吸を生じてくる。

                  ・自らの五境としての[]が衰えた兆しとして、鼻によって、

                   匂いの良い、悪いといった感覚のいずれもがわからなくなってくる。

                  ■以上の要素が衰えたことを示す証として、

                   心に現れる光景を[蛍のようなもの]と呼ぶ。

                  それは、煙突より青い煙がもくもくとわき出ている時、

                  その中に赤い火花が少しずつ出るような感じである。

                  あるいは、ネギを炒った鍋の裏側の汚れの中に赤い火花が

                  少しずつ消散していくような光景が心の中に現れる。

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                  次に

                  (4) 行蘊グループの衰え

                   ・[行蘊のグループ]の五つの要素、すなわち行蘊

                    通常の人の成所作智風界舌根、自らの五境のうちのが同時に衰弱する。

                   ・[行薀]が衰えたことを示す兆しとして、身体を動かすことができなくなる。

                   ・通常の人の[成所作智]とは、世間における活動やその目的などがわかる知識をいう。

                   それが衰えたことを示す兆しとして、世間における活動やその目的などの

                   一切を思い浮かべることができなくなる。例えば食事をしたり、

                   寝たりすることの意味や目的が解らなくなってくる。

                  ・[風界]が衰えたことを示す兆しとして、持命などの[十風(10の中心的な気)]が

                   自らの所在している場所から胸に移動しはじめ、呼吸を吸ったり、

                   吐いたりすることができなくなる。

                   そして、この段階で[呼吸]はとまってしまう

                  ・[舌根]が衰えたことを示す兆しとして、舌の表面の組織はザラザラと粗くなり、

                   その長さは短くなって、舌のつけ根である根元は青色に変色する。

                  ・自らの五境としての[]が衰えたことを示す外の兆しとして、

                   舌で六味を味わう事のできる感覚がなくなる。つまり、甘い、辛いなどの六味が喪失する。

                   この場合、同時に[身根]と[]も衰えてくる。

                   それが衰えたことを示す外の兆しとして、

                   皮膚が通常感じるツルツルやザラザラといった感触が感じられなくなり、

                   感受能力も喪失してしまう。

                  ■以上の要素が衰えたことを示す証として、

                   意識には、[燈明を燃やすようなもの]と呼ばれる光景が心の中に生じる。

                   それは、ロウソクの燈明が尽きる時の動きに似ていて、

                   ロウソクの炎が大小に変化し、そして、大きく揺れるような光景である。

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                  一気に書きすぎたかな?

                  (5)の識薀グループに行く前に、

                  1日休憩することとする!

                  では、寝る!

                  [死]に至るプロセス[1]

                  2018.10.12 Friday

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                    かなり真面目に

                    こんな僕が【家主】の中山手 線です。

                     

                    早速ですが、

                    Wifeが一番懇意にされている叔父さんが[危篤状態]に入られてから、

                    約3週間という時間が経過した。

                    危篤状態では、とても長い時間だ!

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                    Wifeに、

                    「今、叔父さんは[[死]に至るプロセス]の中のこの過程で留まっているんだよ

                    と伝えてあげたい。

                    また、それを伝えることで、Wifeが、今、叔父さんのその傍で、

                    叔父さんの為に「何を語って、何を祈ってあげればよいのか?(廻向)」が解り、

                    そして、僕は、幾つかのアドバイスができると思うのだけれど、

                    言葉で、うまく伝えることができない。

                     

                    なぜなら、[[死]に至るプロセス]は、非常に難しく、

                    かつ、僕はそのプロセスを勉強できるレベルにまで至っていない!

                    だから、自分の言葉で伝えることができない。

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                    従って、

                    今回、特別に「[死]に至るプロセス」のテキストをブログにアップし、

                    そして、Wifeに読んでもらい、彼女がそのプロセスを理解した上で

                    次に何をしてあげなければならないのか?のアドバイスをすることにした。

                    が、あくまでも、彼女が理解すればの話だが、、、

                    特別とは、僕自身が完全に理解していないことはブログにアップしないことにしている為、、

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                    さて、話は変わるけれど、

                    もちろんのこと、

                    僕には、[死]の経験は無い。

                    それは、皆、同じだと思う。

                    ただ、密教では、[死]に至るプロセスを瞑想で感得する方法がある。

                    が、これは顕教(日本では真言宗以外の仏教を指す)を修めた修行者が、

                    次のレベルである密教を修め、その密教の中でも奥義ともいえるハイレベルでのこと。

                    従って、僕なんかでは到底たどりつけない。

                    が、今はそのことが書かれている本が売っている時代。

                     

                    という事で、

                    少し長くなるが、[死]に至るプロセスについて、

                    何回かに分けてアップしてみます。

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                    ■[死]に至るプロセス

                     

                    密教では、人間が死に至る時、

                    人間を構成する要素である[五蘊][四界][六処][五境]と

                    普通の人の[五智]の25の粗いモノが衰弱していく。と言われていますが、

                    実際に肉体が衰え、死に至る過程において起こってくる[肉体の表面的]

                    [物質的な現象(兆し)について順に解説してみたいと思います。

                     

                    が、その前に密教用語としての人間を構成するグループと

                    その要素について理解しなければ、[死に至るプロセス]を

                    理解することができないと思いますので、

                    まずは各グループとその要素の意味を理解してください。

                     

                    ■5蘊=人間の肉体と精神を5つにわけた要素。

                        または、自身の存在を構成する5つの要素。

                    ※人間の肉体と精神を5つの要素として区分けしている。

                    ※蘊⇒うん:5蘊⇒ごうん

                    ・色蘊=肉体および物質のことをいう

                    ・受蘊=感受作用のこと。感覚、単純感情をいう

                    ・想蘊=表象作用のこと。心に浮かぶ表象作用を指す

                    ・行蘊=意思作用のこと。

                         受・想以外の心の作用の一般。

                         例えば、怒り、執着などの意思作用

                    ・識蘊=認識作用。認識そのものをいう。

                     

                    ■四界=物質を構成する4元素

                    ・地、水、火、風

                     

                    ■六処=精神活動を起こさせる6つの領域。

                        対象をとらえる6つの場。五官と心。

                        もしくは、6つの感覚器官と認識能力。

                    ・視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の5つと認識し思考する心。

                     

                    ■五根=5つの感覚器官

                    ・眼、耳、鼻、舌、身

                    ※意が加わると六根となる

                     

                    ■五境=5つの感覚器官の対象となるもの

                    ・色、声、香、味、触

                     

                    ■五智=仏の備える5つの智慧

                    ・大円鏡智=鏡に映像が映るように、多くの対象を一度にはっきり心に現す意識。

                    ・平等性智=楽、苦、そのどちらでもないもの、という3つの心を感じる意識

                    ・妙観察智=親族などの各々の名前を思い出す意識

                    ・成作用智=世間的な活動やその目的を想念する意識

                    ・法界体性智=死の光明の意識

                     

                    ■5つのグループ

                    ・色蘊グループ=普通の人の大円鏡智、地界、眼根、五境の色

                    ・受蘊グループ=普通の人の平等性智、水界、耳根、五境の声

                    ・想蘊グループ=普通の人の妙観察智、火界、鼻根、五境の香

                    ・行蘊グループ=普通の人の成作用智、風界、舌根、五境の味

                    ・識蘊グループ=普通の人の法界体性智、身根、五竟の触

                    ※肉体が衰え、死に至ろうとするものは、死への過程で5つのグループの要素が、

                     順々に衰弱しながら、失われていく。

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                    これだけでも頭が痛くなるかも?

                    という事で、今日はここまで!

                    では、寝ることとする。

                    [お布施]について

                    2018.09.20 Thursday

                    0

                      フッフッフッ、、、、

                      坊主丸儲け!ってなことで、

                      僕が【家主】の中山手 線です。

                       

                      今年のお盆は[8月23日~25日]だったので、

                      バタバタと忙しかったんだけど、

                      ようやく落ち着いたので、ブログアッ~プなのだ!

                       

                      さてさて、

                      そのお盆の時期や法事の時などに、

                      行く先々で、皆さんから仏事に対しての疑問点等を含め

                      仏事用語の意味や布施や戒名への??などを尋ねられるんだけど、

                       

                      毎回説明するのもなんだから、

                      この場を借りて、ちょっと書いておきたくなった次第ですです!

                       

                      さてさて、

                      ■どうしてお布施を渡さなければならないのか?

                      簡単明瞭に書けば、「坊主もご飯を食べなきゃ、マジ、仏になります!」

                      の一言なんだけど、

                      [お布施]の意味は、ネットに書かれている通りです。

                       

                      が、そもそも!なぜお布施を渡さなければならないのか!

                      と言う行為はですね、、、、。

                       

                      ずはり!

                      江戸幕府が、そのルールを作ったから!

                       

                      はい。

                      これだけです!

                       

                      な~んてね!てか、

                      つまりですな。

                      慶長年間に[徳川家康]が自分の領地の民衆管理をするのに、

                      その土地のお寺に管理させたことが始まりで、

                      それを全国に徹底させたのは、元禄年間の5代将軍の徳川綱吉です。

                       

                      制度名としては、[寺請制度]というのが正しい制度名なんだけど、

                      まぁ、今で言う区役所、市役所の役目をお寺がしていたということなんです

                       

                      とは言え、

                      江戸時代、現代のように住民税や区民税(市民税)をお寺に払う制度ではなかったので、

                      法事や葬儀、移転(嫁入り)やパスポート発行(通行手形)、出産、死亡による除籍、

                      本人証明書、その他諸々の届出書を発行してもらうときに渡していた食べ物(お金)が、

                      お布施だったのです。

                       

                      ちなみに、お布施が[食べ物]から[お金]に変わったのは、

                      江戸後期頃からです。

                       

                      さて、話は、ちょっと遡るけれど、

                      徳川家康の頃までは、自分にあった宗派を自由に選んで信仰していた宗教だったんだけど、

                      寺請制度が確立されてからは、住民を管理するという意味もあり、

                      管理されているお寺の宗派から宗旨替えはできない制度になってしまったんです。

                      ※仏教では、宗旨を変えてはいけない!というルールはありません。

                       

                      つまり、江戸幕府の制度では、お布施を渡さなければ

                      その土地に存在できないこととなり、

                      また、罰として遠島、、、

                      まぁ、今で言う刑務所送りですな。

                      そして、宗旨を変えると死罪というキビシイお達しがあったわけです。

                       

                      が、明治維新になり、

                      区役所、市役所ができ、[寺請制度]が撤廃(廃仏毀釈)されると

                      お布施は、強制ではなくなったわけです

                      ※住民管理は、区役所や市役所のお仕事になっちゃったので!

                       

                      だから、お気持ち!

                       

                      という事になります。

                      でも、江戸時代の強制的ルールが、未だ根底に根付いているので、

                      お気持ち!と言いながら、反強制的な文化が根付いているんですな!

                       

                      にしても、

                      なんですな。

                       

                      この制度? もとい、この文化。

                      江戸幕府の、それも元禄時代の制度が、

                      この平成が終わる年になっても、

                      そして、次の天皇の時代となっても、

                      ず~っと続いて行くってことは、

                      とってもスゴイことだと思う!

                       

                       

                      では、寝ることとする。