としても、、、、
いつも迷惑をかけている
僕が【家主】の中山手 線です。
Wife:お酒さえ飲まなければ、いい人なんだけどね!
家主:夕方以降は、悪い人ということで、、、
ってな事で、
ここんところ、休日は[晴れ]が続き、
はたまた、春先のような暖かい陽より!
パパ! 散歩日和じゃよ!
Wifeとワンコ達にせがまれて、
久しぶりに、ちょっとだけ遠くの散策にでも行きますか?
行く! 行く!
ポカポカ日和!
ワンコ達を自転車に乗せて、まだ行ったことが無い[隣の区]にある神社と寺巡りでも!と
やってきました[橘樹(たちばなき)神社]=[Netでは(たちばな)神社]と書いてます。
まぁ、一応、坊主と言うこともあり、所有の[神社事典]でこの神社を調べてみた所、
かなり長くなるので要約するとですね、、、、
主祭神は[弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)]
相殿は、[日本武尊(やまとたけるのみこと)]
この[弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)]は、[日本武尊(やまとたけるのみこと)]の妃。
古事記や日本書紀に書かれている内容を転写するとなると、
これまた長くなるので、要約して書くと、
[弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)]は、
[日本武尊(やまとたけるのみこと)]を守る為に、東京湾に[身をささた(入水された)]妃との事。
この[弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)]を祀る神社は、千葉と神奈川には多いらしい。
それも入水された所以か?、海沿いの神社に多いらしい。
あっ、ただ、横浜の保土ヶ谷にある[橘樹神社]は、神社名に変遷はあるけれども、
そもそも[1189年創建]から祇園社[素戔嗚尊]であって、
大正10年に、なぜか?[橘樹神社]と神社名が変わった為、
[弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)]とは、まったく関係がないらしい!
とっても珍しい狛犬です!
色んな狛犬を見てきたけれど、
子持ちの狛犬って、そんなに多くないし、
それに、この狛犬君!
どうみても、ワンコじゃよ!
左の狛犬君は、上の狛犬君に比べて「ふっくら」としているから
こちらの狛犬君は、[ママ]なのかな?
にしても、愛らしい狛犬です!
本殿の左奥に入った所に石碑がありました。
それに、元の狛犬君と思われる石造が移設?されていた。
いつ頃、建てられた狛犬なんだろう?
かなり古い狛犬だな、、、。
江戸時代初期の頃の作なのかな?
江戸時代の方も、面白いというか、ユニークな狛犬を作ったもんじゃね。
こちらの狛犬君は[鼻]が折れちゃってます。
それに[秋田犬]か?、[レトリバー]的な狛犬君で、
とっても、可愛いですです!
どれどれ、、、
石碑に書かれている碑文の読み方を現代用語に翻訳してくれてました。
えっ、山岡鉄舟さんでっか!
そんなスゴイ方が、ここ川崎市高津区に来られていたとは!
ここ[橘樹の郷]って、有名だったんだね。
ちょっと先に行ったところには、勝海舟も来ていたらしいから、
ひょっとしたら、この神社には、勝海舟も来ていたかも?
[橘樹神社]を後にして、[たちばなの散歩道]を歩いていきます!。
このコースって、坂が多くて、ワンコを乗せて走るには辛いので、
自転車を押して歩きます。
ここは下り坂だから、自転車に乗って下りると楽ちんなのだ!
にしても、狭い道。
これが散歩コースなのかな?
高津区が無理くり作ったコースとしか思えない!
上の写真を、少し進むとこの様な情景です。
舗装はされているけれど、このように狭い散歩道を下っていきます。
ホイホイ!
もっと下っていきます。
これって、ただの私道としか思えないルートじゃね。
どうよ!
これって、ちょっと無理がある[散歩コース]ではないでしょうか?
まぁ、川崎に住んでいて、散歩コースがあるだけでも[恩の字]なんですけどね。
やってきました!
[天台宗能満寺]
なんか、、由緒有るお寺みたいです。
凄くキレイじゃないか!
この時期に、まだ、こんなに綺麗な紅葉を見られるって!
来てよかったです!
まったくもって、素晴らしい!
この常緑樹と落葉樹のショットがタマランです!
一眼レフなら、もっと美しく撮れたと思うんだけれど、
美しさは、皆さんの心で想像して下さい!
こちらが[能満寺]の本堂です。
天台宗と聞くと、[拝観料]って思ってしまうのですが、
こちらのお寺さんでは、[拝観料]は不要みたいで安心しました。
なになに??
そうなんだ!
ここの[能満寺]さんは、これから向かう[影向寺]の脇寺だったんだ。
いずれにしても、こちら所蔵の仏さんは、平安初期の作との事。
平安時代かぁ〜!
伝教大師[最澄]さんの石造がありました。
僕自身、弘法大師[空海]さんの真言宗の坊主なので、、と言うよりも、
今は無き実家は、高野山の麓近くだったので、
比叡山、つまり、天台宗や伝教大師[最澄]さんとは馴染みが薄い。
と言ったって、敵対している訳ではないです。
お!
[三界万霊]の石碑がありました。
[無縁仏を供養]しているんですね。
???
これは、お坊さんの墓石です。
[あっ、坊主の墓石は、この様な形をしてます]
無縁仏になったお坊さんなのかな??
右列から読み取っていくと、、、
[宝永四年 玄天]
[平蓮社覚誉西阿煩應 和尚]
[二月十五日]
[宝永四年]って、[1707年]ってことで、、
今から[309年前]ってことです。
それに[宝永四年]って、確か、[元禄]の次の元号だったはず、、、
そうか!
[宝永四年]って、確か、日本史上、[最大の地震]と言われる[宝永の大地震]があって、
富士山が大爆発した年!!
でも、[宝永四年 玄天]って、
五行説では、[北方の天]の事を意味するはずだから、
[暦]で、九天[五行説]の振分ってあったっけ?
勉強不足なのだ!
そうか!
この[煩應和尚]って、[宝永の大地震]や[富士山の大噴火]で亡くなったのでなく、
[玄天]って、[北方の天]という意味だから、[北斗]つまり[死を司る星]へ行かれたとの事なので、
端的に、死病にかかって、亡くなったという意味なんですね。
[癌]かな?、でも、江戸時代に[癌]はわからなかったと思うから、[結核]でなくなったのかな?
さてさて、[能満寺]を後にして、次は、[影向寺]へ向かいます。
でも、何ですな、、、
かなり、[上り]と[下り]が多くて、思った以上に良い運動になります。
ちなみに、ワンコ達は、自転車に乗っているので、
辛いのは、自転車を押して歩いている僕たち!
とうちゃこ!しました。
神奈川でも、指折りの名跡と言われている[影向寺]です。
思ったより、小さなお寺さんなんだな。
でも、由緒あるお寺さんだから、見どころが多いのでは!
楽しみです!
本堂です。
これは、密教道場が本堂になっているのかな?
元々は、もっと大きなお寺さんだったんだろうなぁ、、、
僕たちも歩くよ!ってことで、
クチャオ君に[車いす]を取り付けて、寺内を散歩することにした。
聖徳太子堂です。
真言宗のお寺では、必ず、建てられている聖徳太子堂ですが、
天台宗のお寺で、この堂が立てられているのは珍しいじゃない!
ここのお寺は、天台宗でも密教道場があるので、それでだろうな。
多分、、、
ってことは、こちらの天台宗は比叡山派ではなく、園城寺[三井寺]派の寺なんだ!
どうです!
とっても、キレイです!
?? 樹の付け根あたりに、お掃除しているお地蔵さんがいる!
面白い趣向なので、近づいてみました!
可愛いお地蔵さんじゃない!
もとい、お地蔵さんではなくて、小坊主だよね?
影向寺の文化財を記載してます。
天平十一年[739年]に創建ですかぁ、、、
今から、[1,277年前]だよ!
ムチャクチャ古い!
こちらは、霊石[影向石]との事です。
奈良時代、この霊石は、今はない[三重塔の心礎]として使用されていたらしく、
この霊石に[仏舎利(釈迦の骨)]が納められていたとの事。
また、この霊石の中央のくぼみには、渇く事のない[霊水]が溜まっており、
[眼]を患っているいる方が、この[霊水]で[眼]を洗うと、
その病は、たちどころに治ったらしい!です。
霊石の裏手に、石仏が並んでおられました。
今は、一同に並んでますが、
こちらの村というか、郷というか、、、
その入り口、入口に、それぞれの石仏が安置されていたと思います。
では、一体、一体をみてみましょう!
あらら、、、
のっけのスタートから、不明な石仏にあたってしまいました!
右手に何かを持たれている仏さんって、、、、
アナタは、誰だ!
通常、石仏になられる仏さんは、
外敵や疫病から守る、進入を防ぐという役割があり、
だいたいが、[地蔵菩薩]さん、[観世音菩薩]さん、
[庚申(青面金剛)]さん、[馬頭観音]さん、[道祖神]さんが多いんだけど、、、
アナタ、誰?
[道祖神]さんかな?
でも、[道祖神]さんなら、[男女1対]が多いので違うよね。
まぁ、とにかく、、、
右側:[三界万霊 有縁無縁]
左側:[明和六 巳丑 十二月十日]
[明和六年]は、今から[247年前]。
10代将軍:徳川家治[8代将軍:徳川吉宗のお孫さん]の治世。
保存状態が良い石仏です。
にしても、アナタは、誰?
やっぱ、レアな[道祖神]さんなのか?
こちらは、保存状態が非常に悪い[地蔵菩薩]さんの石仏です。
上に[奉]の字の一部が残っているけれど、その下に彫られていたはずの文言が削られて解らない。
お顔も、削れてしまって、、、、
江戸時代初期の頃の作品なんだろうか??
こちらの石仏も、[地蔵菩薩]さんです。
おやまぁ、とっても優しいお顔をされてます。
右側:[迫柴童子 寛文九 己酉 (午?)四月十]
左側:[誉?苑童子 月六四日 大稜若子楽七(?)]
判読に手間取ってしまったけれど、
多分、幼い子供2人を同時に亡くしたご夫婦が、死後64日忌に建立された石仏みたいです。
[寛文九年]は、今から「347年前]の徳川4代将軍である徳川家綱[徳川家光の子]の時代。
寛文六年には、豊臣秀頼の正室[千姫]が亡くなっており、
寛文十二年には、徳川3代将軍・家光の弟[保科正之]が亡くなっております。
話は戻りますが、
何が原因で、お二人のお子さんを亡くされたのか?はわかりませんが、
このお地蔵さんのお顔を見ていると、ご夫婦の[悲しみ]と[哀しみ]が伝わってきます。
心から[合掌]!
こちらは、そこそこ保存状態が良い[観世音菩薩]さんです。
[観世音菩薩(聖観世音菩薩)]さんは、左手に[蓮の花]を持っているので、すぐに解りますです。
右側:[奉造立観世音菩薩 爲念佛講 供養也]
左側:[貞享四 丁卯 十月十八日 ●(里編に市:[野]の旧漢か?)野川村 念佛若衆]
今から[329年前]に建立された石仏です。
5代将軍・徳川綱吉が、将軍になったばかりぐらいの時代。
つまり、[元禄年間(元禄時代)]の前の年間です。
当時の野川村の[念佛講]の方々が、[観世音菩薩]を造立したとあります。
皆さん、信心深かったんですね。
こちらの石造も[観世音菩薩]さんです。
右側:[奉十日 天 影向寺 薬師自●●安楽祈 本●●心信如]
左側:[宝永二 乙酉 天 正月十六日 ●●村 小田中村 天 須(?)土一覚悉]
解読不明な文字が多い為、詳しくは解らないけれど、
[宝永二年]、今から[311年前]に、2つの村が合同で、
ここ[影向寺]の本尊である[薬師如来]この石仏を奉納したらしい。
ちなみに、[宝永六年]には、5代将軍・徳川綱吉が亡くなられてます。
こちらも、[観世音菩薩]さんです。
辛いな!
文字が見えない!
右側:[奉造立 観世音菩薩 右志趣(?)昔無人(而?)結衆番 ●●川]
左側:[寛文三年 癸卯 八月(台?)日 武州橘樹郡野川村 (光?)土敬白]
こちらの[観世音菩薩]さんも、
[寛文三年]に建てられたみだいで、今から[353年前]と古い。
将軍は、先にも書いたけれど、徳川家光の子[徳川家綱(4代将軍)]。
解らない文字が多いので、
今度、もう1度、訪問して、詳しく調べてこよう!
こちらは、[地蔵菩薩]さんです。
上の光背が欠けているけれど、どっしりとした石仏です。
右側:[奉造立 地蔵尊像爲 三界万霊]
左側:[寛文八 戊申 三月日 施主]
こちらも上の写真と同じ[寛文年間]の石造なんだね。
古いけど、かなり、しっかりしている石仏です。
豊臣秀頼の正室[千姫]が亡くなった2年後に造立されたとの事。
はい。
最後になりますが、こちらは[庚申(青面金剛)]さんです。
村に[疫病]等の災いが入らない様にする為に、村の入り口に建てられることが多い石仏。
昔は、流行り病って治らなかったので、[病魔が村に入らないように!]って祈ってたんでしょう!
ちなみに、[庚申(青面金剛)]さんは、東方を司る[青帝薬叉神(しょうたいやくしゃしん)]の事なので、
関東には、この[庚申]さんの石仏が多い。
右側:[庚申待供養二世安楽]
左側:[元禄七 辛巳 天 二月吉日 下野]
ここで、ちょっと不思議なのが、
左側に彫られている[元禄七年 辛巳]となっているけれど、
[元禄七年]は、[辛巳]ではなく、[甲戌]なのだ!
ちょうど、赤穂浪士に加わる[堀部安兵衛]が[高田馬場の敵討に助太刀をした年]が[元禄七年]
また、[辛巳]が正しいのであれば、[元禄十四年]になる。
[元禄十四年]は、かの浅野内匠頭が江戸城中で、吉良上野介に切りかかった[殺人未遂事件]の年だ!
どちらが正しいのか?解らないが、多分、[元禄七年]が正しいのだろう。
干支は間違えたとしても、元号は間違えないだろうからね。
しかし、今日は、本当に春先日和だなぁ〜!
とっても、気持ちが良いです。
この先、寒くならなければ良いんだけど、、
四季がある以上は、そうはいかないよね。
今回は、かなり長くなってしまったけれど、
解読できなかった石仏に関して、かなり興味がでてきたので、
今度、再度、訪問して、究明したいと考えた今日です。
いやぁ〜、今日は、面白い散歩でした。!
【ここで一句】
石仏の
建立 知って
噛みしめる!
では、寝る事とする。