[織田信長]の偉大さを語るなら、、

  • 2019.04.26 Friday
  • 02:10

僕が間違ってんのかなぁ~、、

まぁ、頭が悪いから多分、

そうなんだろう!けどと、首をかしげている

僕が【家主】の中山手 線です。

 

近頃、とみに、テレビを見ては、

また、歴史小説を読んでは、

そういう事じゃないだろう!って

思ってしまう僕。

 

今日、テレビで放映された番組で、

[織田信長]って、本当にスゴイんですよねぇ~!って

[織田信長]のこういうところが偉大なんですよ!って

コメンテーターや歴史小説家や大学の教授が色々な例をあげて

熱く語っていたんだけど、

 

いやいや、、、

それは[織田信長]ではなく、、、

そもそもの視点が違うんじゃね?

解釈が間違ってるんじゃね?

 

実は、[織田信長]さんって、

調査・研究されだしたのは明治以降だし、

まだ、100年ちょっとぐらいしか経過してないわけ。

その中で、第一級資料を元に皆が語って、

[織田信長]がスゴイ!って言っても、

そんなところが偉大じゃないんだって!

 

それよりも彼の性格とか、、、

あの時代での彼の思考回路とか、、、

あの時代での彼の視点を語り合った方が良いと思う。

 

例えばね。

[織田信長]を語っている学者や、

彼を好きなコメンテーター等は、あまり語らないけれど、

 

[織田信長]は、一滴たりともお酒を飲まなかった(飲めなかった)!

[織田信長]は、理由もなく人を罰する人ではなかった(短気でもなかった)!

[織田信長]は、自身が理解し、運用・保守ができるモノと者以外は身の回りにおかなかった!

[織田信長]は、すべてに[白][黒]をつけないと気が済まない性格だった!

[織田信長]は、不思議な現象や物事に対しては、

          その原因と結果を明確にしなければ気が済まない性格だった!

 

取りあえず、ざっくり書いたこの5点だけを鑑みても

彼がどのような性格をしていたのか?

おおわくの想像はできると思う。

 

次に、その想像した彼の性格を解釈する前に

必ず、必ず、必要かつ大切なことは、

安土桃山時代と言われる時代に生きていた人々の

物事を捉える視点とその解釈を考えなければ、

[織田信長]という人の偉大さ理解できることはない!

と思うんだけどなぁ、、

 

歴史を語るには、

必ず、その時代に生きていた人々の

物事を捉える視点とその解釈を考えなければ、

どんな資料を読んでも、

現在の僕たちの視点と捉え方で解釈をした場合、

まったく違うモノになってしまうハズなんです

 

例えば、

安土桃山時代と言われる時代。

常識のベースとなっているモノは、仏教学。

この世は仮の姿で、あの世が主たる世界であり、

この世での難病の原因は、前世で罪を犯したからとか、、、

自分の家の鬼門に鬼が居座っているからとか、、

現代の解釈では理解しがたい物事の捉え方をしているんだよね。

 

つまり、そんな世界で生きている人々の中で、

唯一、現代人に近い視点と解釈をしていた人間。

それが[織田信長]なんだよね。

 

なんて偉そうに書いてしまったけど、

でも、[織田信長]の本当の偉大さを語る人って

マジ、少ない。

 

例えば、

―ゞ誼賃里ら武力と教外の収入源を取り上げた。

現在のように道にランクを付けて、区分けをした。

 (例:高速道路、国道、県道、町道、村道、市道、農道等)

2瀛召亮鑪爐鯏一した。

だ農を統一した。

ダは世鯡Jにする為に、公開討論を展開した。

 

本当は、もっとあるけど、

ザックリでも、これだけある。

 

でも、あの時代に上記の~イ裡厩猝椶世韻任

実現するのは大変なのに、

彼は次々と実現させていくんだよね。

そりゃぁ、廻りの人間からすると異常者であり、

[第六天魔王]と言われるよね。

 

 

[織田信長]の偉大さを考える場合、

現代では、あまりにも当たり前になっている物事が、

実は、あの時代に彼が日本で初めて施行した!ってこと。

 

テレビでどこかの大学の教授たちが語っていることなんて、

実は、歴史上、どうでも良いことで、

そんなことで[織田信長]が偉大だ!っていうのは

間違いなのだ!っと思う僕。

 

とんでもなく長い槍を採用した!とか、、

考えられない数の鉄砲を使って戦争した!とかではなく、

 

戦争するには、とんでもなくお金がかかるんだって!

で、[織田信長]がおこなった政策は? ⇒ (ちなみに、楽市楽座ではないよ!)

兵隊が移動するには、移動する道路が必要なんだって!

で、[織田信長]がおこなった政策は? ⇒ (ちょっと上記に書きました)

彼が一番気にしてたのは、天皇や将軍ではなくて、世論なんだって!

だから、[織田信長]は世論を味方につけて何をした? ⇒ (その前に亡くなっちゃったけど)

どうして、そんな根本的なことを説明しないんだろうね?

 

今日、テレビを見て、

憤慨ちやったもんだから、

ついつい書いてしまいました。

 

ちなみに、

[織田信長][無神論者]ではありませんし、

彼が[徳川家康]の正室[築山殿]と長男[徳川信康]殺害命令を出したのも間違いです。

このことに関しては、

[織田信長]は、「徳川殿の家の中の揉め事なので、自身は口を出さない」と

彼の手紙にちゃんと書いているのが事実です。

この辺りも、誰も語らないんですねぇ~、、、

 

あ~、スッキリした!

では、寝ることする。

斜視点・壬生の狼[新撰組]

  • 2017.12.02 Saturday
  • 21:15

でも、やっぱり[天然理心流]を習いたかった

僕が【家主】の中山手 線です。

 

さてさて、

[斜視点]とタイトルに書いたのは、

ネットで見ても、誰もが詳しく説明している[新選組]に対して、

僕が、今さら[新説]や[異説]を書くためではなく、

彼らが なぜ? 壬生の狼と呼ばれたのか?」に対して、

ちょっと書き残しておこうかな?なんて考えた次第です。

、、、ってね!

 

 

ではでは、

・幕末最強の武装集団!

・向かうところ敵無しの剣術の超達人集団!

・幕末最強の剣士たち!

などと言われてはいるけれどね。

 

実のところ、[新選組]​の隊士は、

相手1人に対して、5〜10名で襲うのが基本なのを知っているでしょうか?

まぁ、だから[壬生の狼]と言われる所以なんだけどね。

 

当時、[人斬り]と恐れられた

・岡田以蔵

・中村半次郎

・田中新兵衛

・河上彦斎

・佐々木唯三郎

 

彼らの暗殺は、

[新選組]のように集団ではなく、

あくまでも、たった一人でおこなう暗殺なので、

基本は[一対一]

それも、アクシデントがない限りは、

正面から相手を斬っている

 

そう!

新選組のように[後ろ]から斬りつけはしない!

だまし討ちなんてしない!

 

えっ?

マジ??

知らなかったですか?

 

特に[新選組]内でも、[人斬り]と恐れられた

・大石鍬次郎

・斉藤 一

 

だけど、彼らが1名で[人を斬る]時に共通している条件は、

〜蠎蠅鯏タ譴気擦道損Δ垢襦

⊃温みを確認して襲う。

C舂匹なった振りして

 突如、後ろから不意打ちをする。

 

そして、彼らが集団で襲う時の条件

〜蠎蠅鯏タ譴気擦襪、

 泥酔している時を襲う。

⊃温みを確認して襲う。

まずは、後ろから不意打ちをかけ、

 致命傷を負わせた後に、正面からとどめを刺す。

 

この3原則が彼らの

[暗殺の掟]だったよう。

 

 

ではでは、

・幕末最強の武装集団!

・向かうところ敵無しの剣術の超達人集団!

・幕末最強の剣士たち!

と言われている彼らが

どうしてそんな卑怯な手を使っていたのか?

ご存じだろうか?

 

それは、彼らの流派である[天然理心流]は[抜刀術・居合術]ではなく[剣術]だったという事。

つまり、[抜刀術・居合術]ではないので、[初太刀]で人を斬殺できないということなのだ。

逆に言うと、相手が[抜刀術・居合術]であるのであれば、相手の[初太刀]を外せば

彼らの撃剣の実力が存分に発揮できるという事。

あっ、[初太刀]を外すことができれば!の話。

 

さて、幕末の時代

[暗殺剣]は、[剣術]よりも[抜刀術][居合術]の方が恐れられていたらしい。

故に、[剣術]以外に、[抜刀術][居合術]を習得している武士も多く存在し

[新選組隊士]それぞれの実力も、相当なモノだったとは思うけれど、

彼らが相手1人につき5〜10名で襲ったという事は、

それほど相手が手強かったようだ。

 

 

最後に

[新選組]がそれほど恐れていた[抜刀術][居合術]だが、

にも関わらず、彼らの練習科目に[抜刀術][居合術]は含まれていない。

・砲術[西洋式鉄砲・大砲]

・撃剣[剣術]

・槍術

・馬術

・柔術

 

なぜだろう??

 

それはやねぇ〜!

彼らの仕事は、[暗殺]ではなく、

[不逞浪士の取締りと市中警備]だから、

彼らに[抜刀術][居合術]は必要なかった!わけやね。

 

 

それにしても、

 

1人を集団で襲うのは、

 

まさに[狼]でござる!

 

 

では、寝ることとする。

[楠木正成]の出自

  • 2017.11.26 Sunday
  • 08:16

近頃、色々な文書が発見され、

過去に習った歴史や定説に多大な影響を与えるとともに、

新たな新説が浮上したりし、

ならば!我が実家のヒーロー[大楠公(楠木正成)]の新説でも書いてみるか!

なんて僕が【家主】の中山手 線です。

 

さてさて、[楠木正成]と言えば、

南北朝時代、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府の倒幕に貢献し、

[建武の新政]で足利尊氏赤松則村(円心)らと共に天皇を助けたことで有名な武将なのだ!

 

ただ、彼の出自には諸説あり、

[1]河内国の土豪説

[2]悪党・非御家人説

[3]北条得宗家の被官・御家人説

の3つがあり、この内、どれが事実なのか?

もしくは、事実に近いのか?を数年かけて調べてきた。

 

[1]~[3]まで1つづつ説明をすると、かなりの文字数になるので、

ザックリ書くと、[3]の[北条得宗家の被官・御家人説]が一番近いと僕は考えている。

その理由はと言うと、、、

 

鎌倉時代、当時の武士を鑑みると、

その氏で[独立した家]は、鎌倉幕府から与えられた荘園や地頭の領地を苗字として名乗る。

例えば、毛利氏の場合、鎌倉幕府創業以来の功績者である[大江広元(本姓・大江氏)]の

四男[大江季光]が[相模国愛甲郡毛利荘(現在の神奈川県厚木市周辺)]を[本貫]とした事による。

さて、この[本貫]とは何か?って簡単に書くとね。

 

[本貫]とは、現代でいうと戸籍謄本の本籍地をその土地にすること。

律令制では、氏族集団の発祥の土地をさす。が本貫の意味とされております。

 

従って、[大江季光]の場合は、[毛利荘]に本籍地にうつしたので[毛利季光]と名乗り、

彼の嫡流と言われる子孫は、[毛利]を苗字とした!と言うことだ。

あっ、ちなみに鎌倉時代での[毛利]の読みは、[もうり]ではなく[もり]と読みます。

 

そして、ここは簡易的な説明ですませるけれど、

[毛利季光]の孫にあたる[毛利時親]が安芸国高田郡吉田荘と越後国刈羽郡佐橋庄、

南条庄を領していたが、安芸国高田郡吉田荘に移り住んでからは、

本家は本貫を[相模国毛利荘]においたままなので[毛利氏]を名乗り、

分家は、本家領地の周辺の土地を相続し、その相続した土地を本貫とした為に、

分家は、広島県安芸高田氏吉田町吉田村近辺の在地名を苗字とし、

同じく、越後国刈羽郡佐橋庄、南条庄周辺の在地名を苗字として名乗った。

例えば、毛利元就時代に活躍した桂氏坂氏福原氏志道氏等がそれ。

また、上杉謙信時代に活躍した北条氏安田氏南条氏等がそれ。

 

つまり、楠木氏の場合、

北条得宗家の所領であった駿河国楠木村に北条得宗家被官が居住し、

本貫としたことが考えられる。

※被官=北条家に仕える武士

 

なぜ?そのように考えられるかと言うと、

何かしらの事変(霜月騒動か?)があり、楠木氏の所領である駿河国楠木村が

 鶴岡八幡宮に寄進され、[楠木正成]の父親である[楠木正遠]と彼の嫡男である

 [楠木正俊(俊親とも伝えられる)]は、鎌倉の地で亡くなっている事。

長崎氏の本家である北条得宗家内管領[平頼綱]が

 鎌倉幕府最後の有力御家人である安達氏を滅ぼした[霜月騒動]か?

 それとも [平禅門の乱]か?、は確証を得ていないが、

 元服前(成人前)の[楠木正成]およびその兄弟[姉、妹、正季、正家、正氏]、

 そして、彼らの叔父[楠木正康][楠木高遠]達が[毛利時親]の隠居領近くの

 安達氏所領であった観心寺領へ移っている事。

[毛利時親]が、彼の隠居地である[河内国加賀田村]と資料には書いているけれど、

 実際は[加賀田]ではなく、もっと山深い[唐久谷(現在も邸宅は現存)]と言う場所。

 個人的には、よく友達と夜に肝試しに良く行った場所に近いが、

 とにかく相当な山の中なのだ。

 ちなみに、我々の小学校は[加賀田小学校]です。

 話がそれてすみませんでした! さて、そんな山の中に[毛利時親]は邸宅を構え、

 その場所に少年[楠木正成]は毎日通い、大江流兵法を習っていたとの事。

 どのような理由で、[毛利時親]と[楠木一族]の親交があったのか?は不明だが、

 おそらく,了変の折り、[毛利時親]と正成の父[楠木正遠]との間に何かしらの親交があり、

 その伝手を頼って、落ち延びたのだろう。

[楠木正成]がまだ[多聞丸]と名乗っていた少年のころ、

 山深き[毛利時親]邸へ毎日通っていたのは上記に書いたが、

 ある日、野党に矢を射かけられて襲われ、その場で伏して難を逃れた!

 という場所に[矢伏神社]という本当に小さな神社がある。

 僕の友人の実家の家の前にあるのだが、これは神社と言うよりも[祠(ほこら)]に近い!

 その友達と「伏せるぐらいなら杉の木に隠れるけどな!」って言うぐらい

 大木とは言えないが、中学生が隠れるぐらいの杉の木が何本も立ち並んでいる場所なのだ。

 あっ、僕らが中学生になる前だったから、今から41~42年前だけど、、、

[毛利時親]の正妻が、当時最大の権力者であった北条得宗家内管領の

 [長崎円喜の妹]であること。

 また、彼[毛利時親]は[長崎円喜]を嫌い河内国の加賀田村へ隠棲した事実があること。

 ちなみに、鎌倉幕府末期(14代執権・北条高時から16代・北条守時迄)の

 北条得宗家外戚として権勢を強めた[安達時顕・高景 / 父子]がいる。

 その[安達高景]は[長崎円喜の娘]を娶っているので、

 [毛利時親]とは義理の叔父・甥の関係になる

 この関係を鑑みると、[楠木正成]一族が安達領の観心寺に移った所以も想像できる

[楠木正成]が幼少の頃に住んでいたとされる観心寺は[霜月騒動]の折り、

 安達氏から北条得宗家の所領になっている

 但し、管理は[安達時顕・高景]父子がおこなっていたようである。

С倉幕府滅亡前に、[楠木正成]は、北条得宗家・北条高時の命により、

 反幕府勢力の摂津国渡辺党を打ち滅ぼしている事実があること。

┃同様に、北条高時の命により、紀伊国湯浅氏を打ち滅ぼしている事実があること。

鎌倉幕府六波羅探題の命により、大和国の越智氏を撃滅している事実があること。

楠木氏と同じく、北条家家人の[赤松則村(円心)]の正妻が[楠木正成の姉]であること。

 また、[赤松則村(円心)]は、[楠木正成]と共に後醍醐天皇に味方をし、

 ほぼ同時期に倒幕の挙兵をしていること。これは偶然ではないと思われるが如何に!。

 

ただ、楠木氏と赤松氏の違いは、同じ北条家の家人(被官)でも、

楠木氏 ➡ 北条得宗家被官:北条得宗家の家人であり鎌倉幕府御家人でもあった。

赤松氏 ➡ 北条家被官:北条氏分家の家人。

そういう面からすれば、後醍醐天皇から[]の家紋を下賜された[楠木正成]だが、

[赤松則村(円心)]は、何も下賜されていない

つまり、[足利氏]と[新田氏]であれば、同じ[清和源氏]でも、

血統からすれば[新田氏]の方が[源氏嫡流]に近いとしても、

鎌倉時代を通じて、北条得宗家と姻戚関係を結び、幕府の要職を担い、

朝廷からの官位も受けていた[足利氏]の方がランクが上でかつ、

清和源氏嫡流あったように

 

同じ[北条氏]の被官(家人)とは言え、

血統からすれば[村上源氏]出身の[赤松氏]の方が上だけれども

北条得宗家被官(家人)の[楠木氏]は、

[赤松氏]よりもランクが上であったということである。

 

以上の事を踏まえて考えると、

[楠木正成]の出身地は、北条得宗家被官(家人)であり、

出自は[駿河国楠木村]と言うことになる。

 

当然、本貫の地である[楠木]を苗字としている為、

(河内国のどこを探しても[楠木]という地名は無い)

本家は本貫の地(駿河国楠木村)を苗字として名乗ってはいるが、

叔父や弟たちは[分家]として、河内国の各所を本貫の地とした為、

[和田氏]や[石川氏]、[橋本氏]、[神宮寺]等の河内国の地名を苗字として名乗ったわけである

また、[楠木正成]の譜代の家臣として、[宇佐美正安]という人物が登場するが、

[宇佐美氏]は、伊豆国宇佐美荘を本貫とする氏族

つまり、[楠木氏]の本貫の地とは、かなり近い場所であり、

また、[宇佐美氏]も[楠木氏]同様、北条得宗家の家人でもある。

楠木一族に[和田]を名乗る人物が特に増えだしたのは、

 湊川の戦い以降で、[楠木正成]及び一族18人が亡くなった後からで、

 理由として考えられるのは、楠木一族の所領減少が問題であり、

 多分、和田の所領しか残らなかったのだろう。

 石川や神宮寺、橋本は、北朝勢力に取られてしまったと考えられる。

 

 

 

最後に(おまけ)

 

楠木氏と言えば、菊水の家紋

菊水の家紋と言えば、楠木氏

 

が、[楠木正成]が後醍醐天皇から[]の家紋を下賜されるまでの

楠木氏の家紋は何だったのか?

これは以外に知らない人が多いと思う。

実は、この家紋なのだ!

[山吹に流水]

この家紋が本来の楠木氏の家紋だったようだ。

 

後醍醐天皇から[菊のご紋]を下賜された折り、

[山吹]を[]に入れ替えて[菊水の家紋]を考案したと思われる。

 

通説では、

天皇から家紋を下賜された際、あまりにも恐れ多いからと[菊]を半分に、

半分を[水]にしたことで生まれた家紋と言われている。

 

が、よく考えて欲しい。

恐れ多いからと[]を半分にすることは理解はできるが、

どうして残り半分を[水]にしたのだろうか?

その[水]は、どこからきたのだろうか?

そんならちのないことを何十年も考えてきたけれど、

 

そもそもの[楠木氏]の家紋はなんぞや?って考えて、

色んな文書を読み、探して、ようやく辿り着いてみたら、

[山吹に流水]の家紋だった!

 

あっ、[山吹]を[菊]と入れ替えただけなのね!

 

単純だけど、

これで[菊水]の紋が生まれた理由が解ったのだ!

 

そうそう、

そもそも楠木氏の本姓は[橘氏]とされる。

この[山吹に流水]の家紋は、[橘諸兄]が好んだとされる[山吹]と[流水]を

組み合わせた家紋との事。

橘氏の家紋は[]だが、橘氏の傍系でも[山吹に流水]の家紋を使っている氏族はすくないという。

 

では、寝ることする。

宮本武蔵への疑問

  • 2017.10.17 Tuesday
  • 22:50

実は、宮本武蔵が大好きな

僕が【家主】の中山手 線です。

 

過去に[宮本武蔵の実像]というモノをアップしたけれど、

アクセス数がかなり多いので、

もう少し違う視点からみて、

再度、宮本武蔵への疑問を投げかけてみたい。

 

なぜならば、

彼が生きた時代の数多い剣豪の中で、

宮本武蔵ほど色々な面で[不思議(疑い)]の多い人物]も少ないからだ。

 

まず、

彼が若い頃の剣術流派は、[当理流]

これは彼の父と言われている[新免無二][当理流]だからだ。

 

そして、いつ頃なのかは明確ではないらしいが、

その[当理流]を、彼なりに発展させて[円明流]という流派を興し改めたらしい。

また、その[円明流]を発展させて[二天流]を興し改め、

最後には、[二天流]を色々な面から纏めて[二刀一流]、最後には[二天一流]へと改めている

 

ちなみに、彼の流派を色々調べてはいるけれど、

調べる度に先に書いた通りではなく、

ある書物によれば、[円明流]⇒[二天一流]になっていたり、

彼が起こした流派名の組合せは色々と異なる。

が、結局は、彼が亡くなる晩年には、[二天一流]におさまったみたいなのだ。

彼がもう少し長く生きていたら、また、流派名が変わっていたかもしれない!

と思うのは僕だけだろうか??

 

つまりだ!

剣豪多し!と言えども、

彼ほど、自身で興した流派名をコロコロ変えた剣豪も珍しい!

それも、名前だけではなく、

僕の知る限りでは、同じ人物が興した流派なのに、

名前が変われば、刀術の内容も異なる!というのも珍しい!

本当に不思議だ!

 

次に、彼が誇示している[強さ]だ!

彼自身が晩年に書いた[五輪書]よると

「我、若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負す。

その相手、新当流有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち、

十六歳にして但馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、

二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会い、

数度の勝負を決すと言えども、勝利を得ざるという事なし。

その後、国々、所々に至り、諸流の兵法者に行き会い、

六十余度まで勝負すといえども、一度も、その利を失わず、

その程、年十三より二十八、九までの事也」

と書いている。

 

つまりだ!

この六十余度の対戦者の中で、

明確に名前を書いている人は、[新当流・有馬喜兵衛]のみで、

その有馬氏以外では、[但馬国秋山]という強力の兵法者と言うことになる。

 

となると!

講談で書かれている[巌流・佐々木小次郎]との勝負が真実とするのなら、

[巌流・佐々木小次郎]は、[新当流・有馬喜兵衛]よりも無名であり、

名前を書く程でもない剣豪だったことになる。

 

でも、[佐々木小次郎]は、

中条流の免許皆伝を許された古文書(免許皆伝そのもの)も存在するし、

実際に、彼に免許皆伝を渡した[鐘巻自斎]も有名な剣豪で、

その[鐘巻自斎]に免許皆伝を渡した[富田勢源]剣豪を通り越して剣聖に等しい

 

が、[有馬喜兵衛]という剣豪に至っては、一切、不明の人物なのだ。

[宮本武蔵]と年代が近く、[塚原卜伝]が創始した新当流の流れをくむ剣豪を探してはみたけれど、

これまた一切、見当たらない。

強いて書くと、[有馬大和守乾信]その養子である[有馬満盛]その子[有馬満秋]の3名。

が、この3名。

共に、剣豪としては有名な方で、彼達が[宮本武蔵]と勝負をしたとするのであれば、

少なからず、[宮本武蔵]は、徳川紀州藩の剣術師範になっていたはずなので、

この3名の[有馬氏]とは関係ないと思う。

ちなみに、[有馬大和守乾信]その養子である[有馬満盛][徳川家康]に新当流の奥義を伝授し、

その子である[有馬満秋]は、徳川紀州藩の剣術師範となっている。

 

[宮本武蔵]

少なくとも、この僕なんか足元にも及ばない

桁外れの強さをだ!とは認識している!

けれど、彼に対する僕の疑問は、

どうして、彼は自分が生きたその時代な中で、

有名な剣豪と勝負をしなかったのだろうか?

 

将軍家指南役の[柳生宗矩]は、立ち合いが禁止されているので無理だとしても、

彼の時代、現代になっても名前を残している剣豪は30名を超える。

因みに、彼とはほとんど同年代で、しかも同じ二刀流の[山口流・山口卜真斎]

その他でも、[新陰流・木村助九郎]や、[一刀流・小野忠明][無住心剣流・針ヶ谷夕雲]

[直心流・神谷伝心斎]等の当時でもチョー有名な剣豪はいくらでもいた!

が、宮本武蔵が、そのような剣豪達と立ち会った記録はどこにもない。

唯一あるのは、彼が晩年にさしかかる前、尾張国に留まったおり、

あやつが宮本武蔵。できる奴!」と尾張柳生の[柳生利厳]が、

[宮本武蔵]すれ違いざまに思ったという記述が尾張柳生の文献にあるらしいとのこと。

が、ただ、その記述は何百年後かに誰かが書いた文献で、

[柳生利厳]自らが書き残したモノではないらしい。

(僕自身が、実際に目にしていないので、何ともいえない)

 

宮本武蔵

彼は自分自身で[日本一の剣豪]と言い残しながら、

同じ時代で、しかも年齢的にも近く、

彼よりも有名な剣豪とは、誰一人立ち会っていないのが、

僕の彼への疑問なのだ!

 

ならば、

「俺は日本一の剣豪だ!」なんて

豪語しなきゃ良いのに!

なんて思ってしまう!

 

まぁね。

正直、当時の剣豪の方々の数や情報量を考えると、

有名な剣豪の方と勝負するチャンスは、

なかなか得ることができなかった!とは思うんだけれどね。

 

でもね。

せめてね。

1人で良いからね。

著名な剣豪の方との交友軌跡等は残して欲しかったな!

??!

僕がまだ知らないだけかな?

 

 

では、寝ることとする!

剣豪についての所感

  • 2017.10.16 Monday
  • 22:02

居合道を始めたばかりの超未熟者である

僕が【家主】の中山手 線です。

 

ではではと、、、

歴史をちょっと調べてみると、

わが国に発生した幾千もの剣術流派(途絶えた流派を含め)は、

下記の3流派を[遠祖]としているみたいだけれども、

現在、大きくわけると[3流派]に大別される。らしい。

 

[遠祖]

天真正伝香取神道流(飯篠長威斎家直)

陰流(愛洲移香斎久忠)

念流(念阿弥慈恩=相馬四郎義元)

 

[大別される3流派]

天真正伝香取神道流(飯篠長威斎家直)

 ■代表的な剣聖:新当流 / 塚原卜伝

陰流(愛洲移香斎久忠)

 ■代表的な剣聖:新陰流 / 上泉伊勢守信綱

中条流(中条兵庫助長秀) ※中条流は念流から分派した流派

 ■代表的な剣聖:一刀流 / 伊藤一刀斎

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さてさて、、、

その剣術の遠祖達から江戸初期までの[剣豪]と言われた方を調べてみた。

つまり、年代的には、

室町時代初期(1350年)から江戸時代初期(1600年)までの[250年]

 

この250年の中で、歴史に名前を残した剣豪は[130人]ほど!

ざっくりの調べて130人だから、ちゃんと調べたらその倍以上になるかも?

ってことは、当時の日本って広かったんですね!

 

そりゃそうだ!

今の時代と違って、情報伝達が未熟な時代。

鹿児島県で有名な剣豪が、北海道で有名な剣豪を知る由もない!

淡路島一番の剣豪が、新潟県の佐渡ヶ島一番の剣豪を知る由もない!

そんなことを考えたら、どれだけの剣豪がいたのか?と思う。

 

歴史に名前を残した剣豪は、

自らが極めた剣術をもって[就職活動]をしたので、

その国や藩の記録に名前が残っているが、

富や名声を欲しなかった剣豪もいたのではないか?と思われる。

 

なぜなら、

剣術をもっての就職活動と言うのは、

当時、[負ければ、即、死]に直結していたし、

剣術と哲学も直結していて、

悟りを得ると富や名声を求めない剣豪もいたはず!なんて考える。

 

あっ、

急に話が変わってしまうが申し訳ない!

 

そもそも、何についても例外はあるが、

通常、どんな剣豪でも、戦(いくさ)をはじめ、人を斬る行為の場合、

実際に斬れる人数は[2人]といわれている。とのこと。

[3人目]は、[息切れ]と[刀の刃こぼれ]と[血糊]で、

相手を傷つけるのがやっとだったらしい。

 

これはこの話を居合道の師範から聞いた後、

「ちょっと試してみるかい?」となり、

実際に試して頂いたんだけどね。

 

まず、斬りかかってきた相手の[刀の刃]を

こちらの[刀の刃]で受けるとどうなるのか?という話。

 

TVや映画の時代劇では、火花が散って滑っているけれど、

実際には、[刃]に[刃]が食い込んで、

滑るどころか、まったくもって動かない!

 

どうしてだぁ???

お互いの[刀の刃]が食い込んでるもんだから、

食い込んだ位置で固定されちゃてて動けない!

それでもって相手が[力技]で押さえ込んでくるもんだから、

こっちも負けじと[力技]で押し返してしまう

この攻防を続けるしかないのだ!

 

でも、その食い込んだ[刃]を外す方法として、

自分の[刀]を寝かせて、食い込んだ[刃]を外し、

相手の[刀]を、自分の刀の[鎬(しのぎ)]をつたって流していく、、、。

が、未熟者の僕などは、自分の[刀]を寝かせた瞬間に[力負け]してしまう。

 

まぁ、剣豪ならこんなことはいとも簡単なんだろうけど、

いずれにしても、たったこれだけの単純な動作というか、

この攻防ですら、僕の想像を超えた体力を消耗し、

ヘロヘロになってしまう。

つまり、これが斬り合いなら、次の瞬間にお陀仏なのは僕。

 

次に、

これは事実に近い話としての記述だけど、

[日本三大仇討ち]の一つとして有名な[鍵屋の辻の決闘]

その[18人斬り][36人斬り]で有名な荒木又右衛門の話。

 

彼が学んだ流派は諸説あり、

父親からは中条流、叔父からは神道流等と書物によってマチマチ。

が、ここでは柳生十兵衛から学んだとされる新陰流の剣豪(達人)説を記載する。

その荒木又右衛門が伊賀上野の鍵屋の辻周辺で決闘の助太刀をした話。

 

まず彼は、一刀流の達人と言われている河合甚左衛門を出合い頭に斬った後、

敵方の武者に木刀で後ろから腰を殴られて横転し、

這いずり回って、やっとの事で2人目を斬り、

そして、3人目と立ち会っている最中、

彼が所有している名刀・強刀といわれる[来金道(らいかねみち)]が折れ曲がり、

あげくに、ポキン!と折れてしまったとの事。

まったくもって、18人斬りや36人斬りどころではない。

実際、彼が斬ったのは、やはり[2人]だったとの事。

でも、使ったその体力は、オリンピック選手以上だったと思う!

 

事実、僕は齢54歳になりはしたが、

[脳みそ]はいざ知らず、[体力]なら、その辺の若者よりもある!と豪語するこの僕だけど、

日本刀で連続100回の素振りだけで[身体がヘロヘロになって大変]!

ましてや、刀を振り回しての殺し合いなら

いかに剣豪と言えども、また、斬り合いの場数を踏んでいたとしても、

相当な体力がなければ何人もの人を斬ることなんてできっこないはず!

だから、荒木又右衛門のこの記述は、素直に納得できる!

 

が、そういう意味では、

信じられないが、事実としての文献が多く残されている剣豪がいる。

 

その名は、徳川将軍家剣術指南役

新陰流の柳生宗矩

 

若い頃の話として、

彼は、大阪の陣で、徳川秀忠を守る為、

迫りくる豊臣方の武者7人を瞬く間に斬った!と記録されている。

伝記等の書物により、10人や16人などの人数の多寡はあるが、

一番少ない人数で[7名]と記録されているので、

実際、7人だったんだろうと思う。

 

[サスガ! 剣聖]

 

[剣豪]も[剣聖]になると違うんですね!

 

とは言え、

我が国には、数多くの剣術流派があり、

剣豪たちの数多くの逸話も多いけれど、

何十人も斬ったと伝えられている剣豪も、

最後は、息切れし、集団で惨殺されたなど記録も多く、

どんなに強くても、結局は、体力勝負なんだなぁ〜と思う。

 

まあ、いつの時代でも

強い人は、強いんだけどね!

 

では、寝ることとする!

三国志 Part 5 <魏書:司馬懿>

  • 2016.09.23 Friday
  • 16:07

歴史ものを書くのには、色々と調べる時間がかかり、

なかなか、エイヤ!と書けないので、[三国志]のアップが遅れてしまいました!

早速ですが、前回[三国志 Part 4<魏書:曹操>]アナウンスした通り、

[司馬懿仲達]について書いていきますね!

 

さて、[三国志]ファンからすれば、[曹操]の次に嫌われているのが[司馬懿仲達]。

が、僕個人的には5番目に好きな人物が、この[司馬懿仲達]なのです。

 

[三国志]に登場している人物の性格や実績、また生き方の議論等を一切考えずに、

ただ単に[好きか・嫌いか]だけで考えた場合、僕が好きな人物は、

1:曹操

2:陸遜

3:郭嘉

4:曹丕

5:司馬懿(仲達)

6:呂蒙

7:諸葛亮(孔明)、、、などなどです。

(※あくまでも、[三国志演義]ではなく、史実の[三国志]に基づいてます)

 

だから、[三国志演義ファン]からすれば、「かなり変わっている!」と思われる。

が、僕的には、[司馬懿仲達] 彼の打った手の一つ一つは、

何一つ、僕にはできないけれど、現代社会に通じるところが多分にあり、

すべてにおいて、身の施しと言うか、出退の対処方法が[見事!]と言うほかない!

 

さて、彼の経歴や生涯は、ウキペディアや歴史書を読んで頂けると解ると思うので、

ここで詳しくは書かないけれども、彼は[若い頃から、ただモノではない!]人物だったらしい!

どの様にただモノではない!は、記述書やネットに書いてあるので閲覧宜しくです!

 

では、話は変わるが、

[三国志演義]では、[諸葛亮孔明]と6回戦い、その度に痛い目にあわされたことになっているけど、

実際に戦ったのは、たった2回だけ。

 

第1回目は、231年の[蜀国:第三次北伐]

魏国の大司馬である[曹真]が病没したため、[司馬懿]が[対蜀国司令部の総司令官]に就任した際の戦いである。

[諸葛亮]は、当時、蜀国では次を担う将軍としての魏延将軍や王平将軍を率いて[祁山(ぎざん)]に進出してきた。

が、しかし、[司馬懿]は持久戦を選択し、あえて戦おうとはしなかった。

すると、歴戦の軍師であった[賈栩]や[魏平]らが「天下の笑いものになる!」と彼に詰め寄る。

 

ここで彼のスゴイところなんだけれども、

彼の一存で「出撃命令」で戦えたにも関わらず、わざわざ皇帝へ使者を送り、

「自分自身としては、各将軍へ持久戦を通達しているのですが、

[賈栩]や[魏平]と[張郊]らを含め、全将軍の皆が、出撃すべし!と詰め寄るので、陛下のご判断を仰ぎたく」と

皇帝の判断を仰ぐ。

魏国皇帝は、[出撃!]との命令を下し、、、、、

結果は、三千の兵を失うという[ひどい損害]を被り、大敗北で終焉する。

 

[司馬懿]としては、彼自身は[持久戦]を提案し、

それを皇帝及び傘下の有力将軍に避けられての[出撃での大敗北]

彼は、この負けた戦いでの責任は何一つ負っていない。

 

が、この負けた戦いで[司馬懿]が得たモノは、とてつもなく大きい!

それは、彼の政敵たちの終焉である。

例えば、[賈栩]は、この戦いの後、自らの建策の誤りを恥じたのであろうが、政界から離れ77歳で病没。

[司馬懿]の一番の政敵となる[張郊(ちょうこう)]は、この戦争で敵国の兵士たちに射殺されてしまった。

[司馬懿]にとって、曹操以来の歴戦の将軍である[張郊の死]ほど有難かったことはないだろう。

[十八史略]の一節には、[司馬懿]は[張郊の死]に際し、一人、部屋の中で、踊りながら喜んだ!とある。

事実、[張郊の死]以降の魏国は、ある面、[司馬懿]の独壇場になっているからである。

 

従って、結果的には、

彼の政敵と言える武将、およびその候補である武将のほとんどを、この戦いで消すことができた。

つまり、彼のこの戦いの目的は[諸葛亮との戦いではなかった!]と言う事。

僕には絶対にできないが、こんな思考を持つ人物は、本当にスゴイ!

 

また、彼は、この戦いだけではなく、

彼が曹操に仕えた後、特に曹操の息子の曹丕の時代では、

彼が参加した戦いのほとんどが、勝敗は別として、その様な結末で終わっている。

その様な結末とは、戦いの度に、彼の政敵が消えていっているのだ!。

これは見事と言うしかない!

(ただ、曹操が健在の時は、幾度か同じ様な策略を用いたが、すべて曹操にたしなめられている)

 

2回目は、234年の[蜀国:第五次北伐]

[諸葛亮]が斜谷(都市)から武功(都市)に進出してきた。

この時、[諸葛亮]は、彼が発明した食料運搬用具である[木牛]の改良版である[流馬]という器具を

輸送器具としてテストも含め、兵站補給の確保を試みている。

 

魏国の時の皇帝である[曹叡(曹操の孫)]は、

前回の戦例と蜀国の問題点は兵站補給にある!と認識していたので、

あらかじめ、[司馬懿]には、「持久戦で対峙せよ!]と命じていた。

故に、五丈原に布陣した[諸葛亮]は、度々、戦いを挑んできたが、

彼は守ることに徹し、自らは、決して自らは戦おうとしなかった。

 

[諸葛亮]は、「それでも男か!」と、周辺に[司馬懿]への侮蔑を言いふらし、

[司馬懿]が怒って出馬することを望んだが、[司馬懿]は耐えた。

が、前回同様、彼傘下の将軍は、またもや[戦うべし!]の提案をしてきた。

[司馬懿]は、この提案を避ける為、またもや皇帝へ使者を出した。

皇帝も前回で懲りているので、[戦うべからず!]を指示。

皇帝指示を各将軍に通達し、持久戦に持ち込む[司馬懿]。

 

実は、彼の戦局は[諸葛亮]ではなく、魏国の首都にあったのだ。

なぜなら、この戦いに出る前から[決定事項]であったと思われるのは、

彼が[諸葛亮]との戦いにでている間に、[反司馬懿派]が皇帝に取り入って[司馬懿排除]を行うであろうこと。

それが誰と誰であるか?を、戦地から確認していること。

次に、率いてきた将軍の中で、彼の政敵に成りえる人物がいないこと。

次に、彼が[諸葛亮]の命が長くない事を知っていたこと。

そして、この戦いで、彼の目論見通りに[諸葛亮]は他界するのだが、

またしても、[司馬懿]は、[諸葛亮]を使って自分の立場を安泰にしているのだ!

 

死せる孔明、生ける仲達を走らす!

 

この言葉は、[司馬懿]自ら考えて、魏国を中心に、蜀国、呉国にも言いふらしたのである!

では、なぜ?

[司馬懿]は、自らがこの言葉を「言いふらしたのか?」、「言いふらす必要があったのか?」

 

当時の魏国の宮廷内では、前皇帝[曹丕]の信任厚い[司馬懿]の専横に対して

彼の排除を皇帝に進言する臣下が多く、

いかに現皇帝[曹叡(曹操の孫)]が、父である前皇帝[曹丕(曹操の息子)]の言いつけ通り、

「どんな懺悔があっても[司馬懿]を疑ってはならない!」の言葉を遵守していたとしても

[司馬懿]個人は、安心できなかったのだろう。

 

故に、[諸葛亮]が[北伐]と称して攻めてきたのは、彼にとって格好の材料だったのである。

そして、[司馬懿]は、、[諸葛亮]との戦いをフル活用し、

自身排除で、誰と誰が繋がっており、誰が動いて、誰が隠れているのか?を調べてた後、

自ら[死せる孔明、生ける仲達を走らす!]の噂を広め、

自分は臆病物である!」「諸葛亮孔明にコテンバンに負けた!」との印象をつけた。

 

すると、がぜん[司馬懿]排除を目論む人間は、確固たる[司馬懿への敵対心]に[スキ]が生じ、

結局、その[心のスキ]を突いた[司馬懿]に、魏国重臣達は[彼の立場]を黙認せざる得なくなったのである。

[司馬懿]個人としては、これでようやく安心したとみえる。

 

が、その14年後、[魏国皇帝]は、彼の孫である[司馬炎]によって[皇帝の座]を禅定し、滅ぶのである。

世の史書などでは、[司馬懿]が魏国を簒奪する基礎を築いた!と記載しているが、

彼には、決して、魏国を簒奪する気持ちは無かったと推察する。

なぜなら、彼が亡くなる際、彼が仕えた[曹操]とまったく同じ言葉を残している。

 

「簒奪者にならなくて良かった!」

 

[司馬懿仲達]

彼は、[諸葛亮]同様に、国を簒奪するなんて一切、考えてなかった。

ただ、彼が、[諸葛亮]と違うところは、彼は[魏国での自身の立場の安泰に執着した]。

が故に、結果的にそうなってしまったのでは?と考えざる得ない。

 

日本では、一般的に、[司馬懿]と[徳川家康]は酷似していると言うが、

僕的には、[豊臣秀吉] と似ていると思えてならない。

なぜなら、性格の表と裏はあるが、酷似した手法を用いて情報を得る環境を設定し、

後に、[自身の立場安泰を考えた末の選択]をしているからである。

三国志 Part 4 <魏書:曹操>

  • 2014.10.06 Monday
  • 14:26
中国4,000年の歴史というけれど、
曹操ほど悪者になっている人物も珍しいと思う。
同じ様な悪者をあえて書くなら、秦国を創始した始皇帝、明国創始者である朱元璋(洪武帝)の2名ぐらいしか浮かばない。
その大悪党・曹操について、生まれや育ちなどを今更、ここで書こうとは思わないが、彼の性格を現す書見を幾つか書いてみることにする。

話はちょっとズレるが、正史三国志では、後漢王朝の後継国として魏国を正統後継国としているのに対し、小説三国志演義では民間伝承に従って蜀国を後漢王朝の正統後継国としているところに、劉備や諸葛亮を善玉とし、曹操を悪玉、孫権を中立に書く必要があったと思う。

その曹操も三国志演義では、許劭(きょしょう)が曹操を評した「君は治世の能臣、乱世の姦雄ならん」、この言葉は有名だ。
ただ、この言葉は数百年も後に孫盛(そんせい)という人物が南北朝時代宋国武帝記「異同雑語」に記載した言葉で、曹操が生きた時代からは遠く離れている。

まぁ、言っている事は同じような言葉だが、曹操を評した言葉として、曹操が生きた時代に近い書物から引用してみると、、、
・「世説新語」橋玄(きょうげん):「君は、誠に乱世の英雄にして、治世の姦賊だ」
・「後漢書」許劭(きょしょう):「君は、清平の世の姦賊、乱世の英雄ならん」
 ※同じ許劭の言葉だが、後漢書に記載されている方が正しいと思われる。

どちらが実際の曹操に対する批評なのか?はわからないけれど、「姦賊」と言われているところをみると、鬼平犯科帳に出てくる「早働きをする凶悪な盗賊」をイメージしてしまう。
つまり、曹操という人物は、世の中の秩序や法律を叩き壊し、新たに構築することをやりかねない人物、、性格は違うが日本で言う織田信長の発想をイメージしてしまう。

次に、曹操の幼少の名は「阿瞞(あまん)」だったと伝えられているが、中国で「瞞(まん)」は「騙す」との意味なので「嘘つき小僧と呼ばれていた曹操」という意味合いの「曹瞞伝(そうまんでん)」と言う伝記には曹操の性格を現すものとして下記の様に書いている。
「曹操の人となりは軽はずみで威厳がなく、音楽を好み、芸人を左右に侍らせ、常に日中から夜に至るまで楽しんだ。衣服は軽い絹を用い、小さな皮袋をつけてハンカチや細かい物を入れていた。時には帽子をかぶって賓客と会う。人と談論をする時はいつも冗談をいい、思っていることを隠さずに話した。喜んで大笑いした時は頭を杯や椀の中に突っ込み、頭巾を膳の肴で汚してしまった」とある。

三国志演義に書かれた冷酷無比で威厳ある曹操のイメージとは、正反対の性格だ。
まぁ、色んな面で、いつも悪者になる曹操だが、
負けた回数は数え切れなく、勝った回数は片手でも余り、それ以外の能力は主役である三国志演義ですら何も書かれていない劉備。
武芸に秀で、類稀な外交感覚で曹操とわたり合った孫権。
に比べ、曹操は、兵法孫子を通読し、その孫子をベースに独自の体験を加えた兵書を作成した兵法者、と思えば、数多くの詩文を作り、六朝文学の礎を築いた文学者。はたまた、農耕方法に改善を加えた農学者。武芸にも秀でており、後漢王朝に至っては、偉大なる政治家として君臨した英傑。
こんな多様な人間性を持った人物は、中国史上でも珍しいと思う。

220年1月
66歳で亡くなった曹操は、
「天下はなお安定していないから、古式に則って葬儀を営む必要も、喪に服する必要もない。兵を率いて駐屯している者は部署を離れず、官吏は各々の職を奉じているがよい。遺体を包むには平服を用い、金銀珍宝を墓中に収めてはならぬ」と言い残したという。
息子が凡庸で諸葛亮に頼むしかなかった劉備や晩年、愛妾にうつつを抜かし後継者問題で多くの名臣を惨殺した孫権と比べると、後継者争いが無かったとは言えないが能力溢れる後継者を定め、死ぬ間際にいくつもの手を打って国を安定させた上に上記の遺言を残した曹操とは、なんと素晴らしい指導者だったんだろう!と感心してしまう。

正史三国志を書いた陳壽は、
「曹操は古人の法術と奇策を兼ね備え、策略の限りを尽くして天下を鞭撻した。
適材適所に人を用い、自分の好悪の感情を抑えて冷静な計算に従い、その人の旧悪を問題にしなかった。天下の役割を担うに至ったのは、明晰な機略が最も優れていたからである。曹操こそは非常の人物、時代を超えた英傑というべきか!」と評している。

史実の曹操は、三国志演義の悪役・曹操とは違い、
時代を超えた英傑だったんだろう。

三国志 Part 3 <蜀書:馬謖>

  • 2014.10.05 Sunday
  • 18:44
三国志を語るには、豪勇、豪傑の武将が多いと言えども、
まずは、順当通り、曹操、劉備、孫権、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲から書かなければ!と思ったけれど、まぁ、その辺は順当通りではなく、諸葛亮(孔明)を先頭にして第二回は馬謖を書きたいと思う。
では、早速、、、、、

泣いて馬謖を斬る!
諸葛亮(孔明)が魏国を攻撃した際、経験豊富な将軍を先鋒に任命せず彼が可愛がっていた実戦経験乏しい馬謖を任命
その先鋒を任された馬謖は街亭(がいてい)という土地へ進出し、諸葛亮から「山の上には陣取るな!」と指示されていたにも関わらず、奇策を用いたいが為に山上の陣取り、魏国歴戦の将軍である張郃(ちょうこう)に水路を断たれて日干しに状態になり、「どうせ全滅するのであれば!」と全軍で山を下りたところを張郃将軍率いる魏軍に攻められて壊滅的に叩かれ、後日、命令違反の軍律を問われて「斬首」になった際、諸葛亮の心情を表したのがこの言葉である

三国志演義では、「泣いて馬謖を斬る」諸葛亮の心情と馬謖が斬首されるシーンは書かれており有名だけれど、正史三国志では下記のような記述があり、馬謖が斬首された!とは書かれていない。

1.蜀書諸葛亮伝=「謖を戮して衆に謝す
  解釈として、諸葛亮は馬謖を斬って、民や臣下に謝罪したとのこと。
2.蜀書向朗(こうろう)伝=「朗もとより馬謖と善し、謖逃亡し、朗情を知りて挙げず、亮之を恨み、官を免じて成都に還す
  解釈として、向朗は昔から馬謖と親しく付き合っていた、それが故に向朗は、この度の敗戦で逃亡した馬謖の動向を知っているにも関わらず、諸葛亮に報告しなかった為、諸葛亮は向朗の役職を剥奪し、蜀国首都である成都へ護送した。ということ。
3.蜀書馬良(ばりょう)伝=「謖下獄して物故す
  解釈として、馬謖は投獄され、病死なのか?、自殺なのか?、はわからないが獄死したということ。

これらをつなぎ合わせて解釈すると、、、、
馬謖は、街亭の戦いで壊滅的な敗戦をした後、蜀の国から逃亡し、その経緯や所在などを昔からの友人である向朗には伝えていたのだろう。向朗も馬謖の所在などを隠していたが、馬謖が捕まって秘密ごとがバレてしまい向朗は役職等を剥奪され、成都へ戻されてしまった。一方、馬謖は捕縛され、牢屋へ投獄された後、諸葛亮が馬謖は「斬首の刑」と発表したが、馬謖は病死なのか?、自殺なのか?は不明だが、牢獄の中で亡くなった!と解釈するしかない。っと言うことは???。

泣いて馬謖を斬る!
この言葉も史実に反した三国志演義の創作なのだろう

ただ、補填として記載すると、
時代も下って正史三国志の注釈を施した裴松之(はいしょうし)という人物は、蜀書馬良伝の注釈として「襄陽記」から抜粋し、死に臨んだ馬謖の手紙を載せている。
「明公(諸葛亮のこと)は私を自分の子のように扱われました。私も明公を父のように慕ってきました。どうか舜(しゅん)が鯀(こん)を殺し、親の罪に関係なく鯀の子である禹(う)を引き立てた意味合いをお考え下さい。平素の交わりを今となって損なわないようにしていただくならば、私は死んでも心残りはありません」
諸葛亮は、馬謖の葬儀に出席し、彼の願い通り、遺児を平素と同じ様に待遇したとある。

この文面を読むに、やはり馬謖は斬首されたと思えなくも無いが、この注釈は正史三国志から何百年も後で書かれた注釈なのでどうか??と思う。また、この注釈が正しいものであったとしても、馬謖が斬首の刑を言い渡された後に諸葛亮へ書いた手紙であり、やなり馬謖は斬首ではなく獄死したとするならば、葬儀を催したのも納得がいく

通常、殉死した武人の葬儀ならいざしらず、軍律違反で斬首の刑に処せられた武人が葬儀を催し、また、その葬儀に一国の丞相(日本で言う「総理大臣」)が出席するだろうか?。
中国史を読む限り、その様な人物と出会った事が無いし、この日本史でも出会った事がない。
従って、馬謖は獄死し、それを憐れんだ諸葛亮が葬儀を許し、参列したのではないだろうか?
そのほうが僕的には「納得がいく」んだけども、
みなさんは、どうだろうか?。

三国志 Part 2 <蜀書:諸葛亮>

  • 2014.10.02 Thursday
  • 23:20
三国志と言えば、諸葛亮(孔明)でしょう。
僕も大好きな諸葛亮(孔明)。
あの神をも凌駕する名軍師
戦上手の大軍師
でも、真実の諸葛亮は三国志演義で描かれた姿とはマッタク違う!

例えば、208年の赤壁の戦いの後、、、、
そうそう、赤壁の戦いの折にも「諸葛亮」は三国志演義で描かれた「風を呼んで火責めを有利にした!」とか、「曹操軍に矢をいらせて、何十万本もの矢をまんまとせしめた!」とか、、、
すべて作り話です。はい。

赤壁の戦い(レッドクリフ)は、孫権軍と劉備軍の連合軍 VS 曹操軍というよりも、ほぼ100%近く孫権軍が主力で戦った曹操軍との戦いであり、劉備軍は、ほとんど何もしていないのが史実なのだ。
そんな戦いを「劉備〜諸葛亮へと主役が移る三国志演義」では、「実は何もしていなかった!」となると小説が成り立たないので、せめて諸葛亮が風を呼んだ!とか、矢をせしめた!とかしておかないと話しにならなかったのだろうと思う。

まぁ、それはそれとして、レッドクリフ(赤壁の戦い)の後、諸葛亮は軍師中郎将という役職に任じられているが、実際は軍師という職務ではなく、内政(租税の微収や民心の掌握と安定等)の責任者として活躍しているのだ。
その後、劉備が蜀に侵攻して劉璋から蜀の国を奪った後は、軍師将軍兼府事(事務長)に昇格し、やはり兵士の確保と兵糧の補給、内政が彼の職務となっている。

221年、劉備が皇帝に即位した時は、丞相という最高位に昇格し、蜀科と呼ばれる法律を制定、それと共に才能ある者を年齢に関係なく抜擢して内政の要職につけ、やはり内政面を担当し実績をあげている。
つまり、諸葛亮は政治家としては、古今東西、一級クラスのトップであろう才能をもっていたと思われるが、司令官や軍師としては、当時の魏国の司馬懿や呉国の陸遜や、過去、三国志に登場してきた軍師達と比べると、、かなり見劣りしてしまう

とは言っても、当時、蜀国において諸葛亮以外に人材がいなかったという現実と他の2国よりも弱小で国力に乏しかったという中で、良くぞ三国を鼎立させたもんだ!と、やはり政治家としての諸葛亮の能力には感嘆する!

では、どうして?彼は他国の軍師達より見劣りするのか?
1.劉備が蜀を占領する際、諸葛亮は荊州の内政と兵士と兵糧の調達が担当であった。
2.蜀を占領後、劉備が要衝である「漢中」という地を5年がかりで侵略、奪取した際、
  諸葛亮は、やはり蜀国の内政と兵士と兵糧の調達が担当であった。
  従って、軍事関係(戦略策定や建策等)に携わっていない。
3.関羽が荊州で快進撃をしている際、やはり諸葛亮は何の建策もしていないし、
  詰まるところ、関羽は囚われて息子ともども処刑されてしまう。
  仮に諸葛亮が「三国志演義に描かれた軍師」であったならば、関羽の快進撃の際に手を打ってしかるべきなはずなのに、
  史実の彼は、軍師として何の手も打っていない。

例えば、彼が三国志演義の通りに軍師の職であったならば、劉備軍は赤壁の戦いで荊州の一部を得てから関羽の燓城攻撃までの10年以上、毎年の如く戦っており、その兵力の消耗と国力の疲弊を考えたならば、軍師として「時期尚早と進言する」はずだし、三国志上、他国の軍師の職にある人物は自分の主に進言している。
が、史実の諸葛亮は、内政の充実に務め、たんたんと兵士と兵糧を確保し、軍師としては何の進言もしていない。詰まるところ諸葛亮は「軍師では無い」と言うのが事実なのだ。

第二に軍師であれば、同盟国の呉国孫権の動向にはくれぐれも注意する様に進言するはず!
通常の軍師であれば、当時、同盟国とは言え、呉国孫権の軍師は対劉備強硬路線の急先鋒である「呂蒙」であったにも関わらず、史実の諸葛亮は何の進言もしておらず、結果、関羽は囚われて処刑された。

第三に軍師であれば、関羽の燓城攻撃を認めたにせよ、後詰の将軍を送るはず!
不思議なのは、荊州と巴蜀の地の2州を基盤に「魏・呉・蜀の三国鼎立」と「漢王朝の復興」を劉備に提案したのは諸葛亮であるにも関わらず、関羽が敗れ、荊州が奪われるのを諸葛亮は、ただ見ていただけということになる。
なぜ?劉備に後詰の援軍を送る進言をしなかったのか?

当時、蜀国内には、張飛、趙雲、馬超、黄権などの名将は健在であり、あいていたにも関わらず、後詰として彼らの中から、せめて1人だけでも派遣する様に進言していれば、前方を曹操軍、後方を同盟国の孫権軍に囲まれて関羽は囚われることは無かったはず!だし、関羽が斬首された後、荊州を奪われ、それに続く劉備の呉国への東征にも諸葛亮は何の建策もしていない。
また、劉備の呉国攻撃を止める事すらできずに、、、やはり兵士と兵糧を輸送のみに徹している。
ただ、この劉備の呉国攻撃に関しては、蜀書法正伝に「もし、法孝直(法正の字)がいたなら、主上(劉備)を制して東行させなかったであろうに。たとえ東行しても危険は避けたであろう、、」という諸葛亮の愚痴めいた言葉が残されている。

まぁ、この様に、諸葛亮孔明が三国志演義の如く、軍師であったとすれば、上記に記載したことに対して手を打つはず!なのだが、史実では何の手も打っておらず、「内政と兵士、兵糧の確保・輸送業務」のみを遂行しているところを鑑みると、まるで豊臣秀吉が中国大返しから天下統一までの石田三成の業務と重なって見えてくる
つまり、諸葛亮孔明は「内政担当の官僚」だったということなのだ。

諸葛亮(孔明)が初めて実戦の経験したのは、劉備の死後に行われたあの有名な「七度放たれ、七度捕らえる」の南征伐だけど、これは「十八史略」にも書かれているが、西南夷の部族長である「孟獲」が呉国よりも蜀国の属国を選び、その為、蜀の属国を嫌がる他部族を従わせる作戦を「諸葛亮」に申し出て、自らが七度放たれ、七度捕われる「八百長を演じた戦い」であり、はっきり書いて「仕組まれた戦い」なのである。
つまり、諸葛亮は孟獲の作戦に乗っただけなのだ。
決して、三国志演義のように諸葛亮が神にも等しい戦略を用いた戦いではなかった

また、諸葛亮は、実体験よりも理論優先で作戦を考えており、有名な「泣いて馬謖を斬る」の馬謖を用いた第一次北伐にしても、実戦経験豊富な趙雲将軍や魏延将軍、呉懿将軍を用いず、実戦には乏しいが理論倒れの馬謖を用いて敗れている
その窮地に陥った馬謖を救ったのは、皮肉にも学こそないが戦場の修羅場を生き抜いてきた王平将軍だった。
(この事の詳細は、馬謖の頁で詳しく記載する)

史実を見るに「諸葛亮」は、実戦経験豊富な将軍よりも、自分と同じ実戦経験が乏しく、
かつ理論派の将軍を優先したフシがある。

最後に
死せる孔明、生ける仲達を走らせる!」と言う諺にもなっている有名な言葉があるけれど、これは諸葛亮を恐れた!と三国志演義では描かれているが、史実は、魏の朝廷での自らの立場を危ぶんだ司馬懿仲達が身を守るために自ら流したデマであることは、三国志にも、十八史略にも書かれている事実。
(この事は、司馬懿の頁で詳しく記載する)

「三国志」を著した陳壽(ちんじゅ)は、諸葛亮孔明を評してこの様に書いている。
政治を熟知している良才で、管仲(かんちゅう)・蕭何(しょうか)のような名相の仲間である。しかし、毎年軍隊を動員しながら成功できなかったのは、思うに臨機応変の将軍としての才略に欠けていたからではないだろうか?」と述べている。

陳壽は初めに蜀国に仕え、蜀が滅んだ後は晋国(三国の統一国家)に仕えた歴史家で、祖国の名臣である諸葛亮孔明には深い敬意を払ってその事績を書いている。が、その陳壽をもってしても諸葛亮孔明に対する評価は上記の通りであり、サスガに名軍師とは書かれていない。

冒頭にも書いたけれど、僕はあくまでも諸葛亮孔明は大好きである。
諸葛亮孔明
できれば、三国志演義の様に「神の如き軍師」であって欲しかった!のは僕だけだろうか?

三国志 Part 1

  • 2014.10.02 Thursday
  • 05:14
こんにちは!
最近、ブログというより、、、から逸脱してきているので、
ちょっと路線を元に戻してみようと思い、歴史エッセイを久しぶりに書くことにしました。

数ある歴史の中で、今回は「三国志」の中の有名な人物の史実に基づいて記載していきたいのだけれど、その前に日本でも史上空前のブームとなった「三国志演義」という物語の人物像があまりにも定着しすぎているので、まずは「三国志と三国志演義の違い」を簡単に記載してみたい。

そもそも「三国志演義」という物語が日本国内で大ブームになったのは、やはり吉川英治氏が書いた「三国志」と横山光輝氏が書いたマンガ「三国志」が火付け役となっていると思う。
吉川英治氏が書いた「三国志」は、中国の元時代末期、明時代初期に生きた「羅貫中(らかんちゅう)氏」が書いた小説「三国志通俗演義」が下敷きになっていると昔に知った。
横山氏のマンガ「三国志」も多分にそうだろうと思う。

彼(羅貫中)が書いた登場人物像は、善玉派、悪玉派、中間派の3つに区分けされていて、
例えば、善玉派は、代表の「劉備玄徳」は情け深い温厚な人物、「関羽」は忠義一徹の豪将、「諸葛亮(孔明)」は神算鬼謀の名軍師として書かれている。
また、悪玉派は、悪玉代表の「曹操」は情け容赦もない冷徹かつ冷酷な人物、中間派の代表である「孫権」は目先の利益ばかりを追う日和見主義的な人物というぐあいである。

小説やマンガとしては面白い!。
ただ、70%が史実で、30%が虚像。
それもかなり重要な部分が作り話なのだ。

30%の作り話とは多すぎるけど、、、
例えば、、、
あの有名な、劉備と関羽、張飛の「桃園の契り」などが虚像であり、作り話だったこと。
赤壁の戦いの黄蓋(こうがい)の「苦肉の計」など無かったこと。これも作り話だったこと。
諸葛孔明は「名軍師」などではなく、誠実な政治家だったこと。
曹操は、冷酷無比な人物ではなく、昔にとらわれずに新時代を拓く才能溢れた人物だったこと。
劉備は、情け深い温厚な人物などではなく、粗暴かつしたたかで、常に計算づくの人物だったこと。

そもそも「三国志」とは、「魏書(30巻)」「蜀書(15巻)」「呉書(20巻)」の計65巻で構成されていて、内容は「小説である三国志演義」の様に時間的流れにそって書かれているのではなく、すべて「列伝」になっているので、初めて読まれる方は中国史を多少とも理解した後に読まれた方がより面白く読めると思うが、小説・三国志演義を読んだ後に三国志を読むと、、、
その時代的背景の差異ではなく、人物像の違いに戸惑うかも??と思う。

今回はスタートなので、劉備玄徳を簡略して書くと、、、
曹操や孫権には父祖の財力があり、また、一族一門には優れた人物が多い。
曹操の場合、曹仁、曹真、曹休、曹純、夏侯惇、夏侯淵などの勇将。
孫権には、孫瑜、孫皎、孫奐、孫賁などの将軍。
が、劉備の場合は中山靖王劉勝の子孫といわれているが、父祖の財力も無く、また劉備の一族には登場する人物は1人もいない。日本では劉備に似ている??と思われる豊臣秀吉でさえ、父親違いとは言え「弟である豊臣秀長」1人はいた!のを考えると劉備は天涯孤独だったのか?と思ってしまう。

故に、地盤もなければ財力も人材も無い彼は、ただひたすら人心を得ることに熱中し、人心を得る事には資金は要らない、最も安上がりな方法で彼は群雄割拠する時代を生き抜いてる(それはそれでスゴイ!と思う)。

例えば、
かの裏切りモノとして名高い呂布が殺される時、曹操へ「コイツほど信用できない奴はいない!」と劉備のことを言ったが、呂布は主人を2人変えて殺され、劉備は5人も変えているのに信用されて呂布も納得できなかったとは思うが、主人を5人変えても「憎めない奴、信用できる奴」を計算して、へりくだって演じて世の中を渡ってきた劉備玄徳。
それを考えると、三国志演義で描かれている劉備玄徳のイメージが崩れてしまうのは僕だけかな?
三国志を読むと、どうも陰湿な彼の部分が頭から離れない、、、

まぁ、彼に関しては後ほど詳しく記載しますが、簡略的に書くとこんな感じ。
史実の方が人間臭くて、面白いと言えば面白いけどイメージ崩れますよ。

では、寝ることとします。

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