織田信長 その人2[楽市・楽座]

  • 2019.11.29 Friday
  • 23:29

[織田信長]が好評?につき、

調子に乗って、またまた[織田信長]を書いちゃう

僕が【家主】の中山手 線です。

 

さて、

皆さんは、ご存じでしょうか?

鎌倉時代の1185年から豊臣秀吉が日本全国(北海道、沖縄以外)を統一し、

太閤検地完了の1591年までの約400年の間、大名(領主)の収入は[貫高制]であり、

現在、一般的に言われている[石高制]ではなかった

例えば(1)

■お百姓さんが大名(領主)に納税するとしよう。

・[貫高制]:お金

・[石高制]:お米

 

例えば(2)

■織田信長が尾張国1国を支配した時の税収で表現してみよう。

・[貫高制]:1万貫(当時は、貨幣単位は[貫]だった)

・[石高制]:24万石

 

従って、教科書やテレビで言われている織田信長の最大版図の時の税収は、

[600万石]とも、[800万石]とも言われるけれど、

それは秀吉時代や徳川時代と同じ[石高制]で解りやすく書いているだけで、

正しい表し方ではないという事です。

従って、正しく記すと[14,400万貫]とも、[19,200万貫]と表記します。

 

何を言いたいのか?というと

織田信長までの時代の常識として、税収は[貫高制]なので、

当然、織田信長が重視していたのは[市場経済の活性化]であって、

織田信長は、上杉謙信と同様、

楽市や楽座を中心とした、自国の経済成長に目を向けた戦国大名である

※ある面、織田信長は、上杉謙信を見習っていた感がある。

 

実際問題、織田信長の時代

例えば、尾張国清洲(愛知県清須市)から伊勢国長島(三重県長島市)までの

20km間で、関所が6~10か所もあったらしい。

※この[関銭(通行税)]は、その土地の領主や寺社や豪族などが

 勝手に関所を設けて微収していたらしく、それぞれの収入源になっていた。

 当然、織田信長の収入源は増加しない。

 

つまり、関所を通過するのに[関銭(通行税)]を払う。

その分、物流は高くなる。

関所を10か所通過すると、10か所分の[関銭(通行税)]が商品に上乗せされる

同じ商品が国、地域、市場によって価格が変動していた

これが戦国時代の常識だったのだ。

 

織田信長が最初に手を付けたのが、この関所撤廃である

関所を撤廃することで、適切な価格を定め、物価の高騰を抑えて、

活性化し、その上で、その市場での売買に税金をかけた。

これを織田信長流の[楽市・楽座]であり、

学校でならったほかの戦国大名の[楽市・楽座]とは、

かなり内容が違うのだ。

 

さて、その為に織田信長が徹底したのは、前回にも記述した、

1)関所の撤廃

2)交通網の整備

3)産業の区分け

4)市場の整備

5)金銭の統一 などです。

 

そこで問題になったのが、

A)寺社が設置している寺社領の関所と市と座の利権問題

B)朝廷が設置している朝廷領の関所と市と座の利権問題

C)公家が設置している公家領の関所と市と座の利権問題

D)独立豪族が設置している豪族の関所と市と座の利権問題

E)豪農が設置している総村の関所と市と座の利権問題 である。

この[利権]を各勢力が手放すはずがないのである。

それは現代の今でも同じこと。

 

ということで、

織田信長が相対したのは、この[利権](A~E)の撤廃。

それを了承しない既存勢力の撲滅。

つまり、自国勢力の新物流システムに置換えることである

ここのところを、歴史家とか、歴史好きの方々は理解していない。

 

基本的に、歴史を鑑みる時

1.不動産の利権確保

2.市場の利権確保

この2つの[利権]を基本に歴史をみてみると

・なぜ、大和朝廷は侵略したのか?

・なぜ、鎌倉・室町幕府が成立したのか?

・なぜ、応仁の乱が勃発したのか?

・なぜ、織田信長が急成長したのか?

・なぜ、秀吉が天下を統一できたのか?

・なぜ、徳川幕府が300年も続き、繁栄したのか?

・なぜ、明治政府が成立したのか?

すべてが理解できる。

 

まずは、織田信長の場合は、

主たるベースは[市場利権の確保と改革]である。

 

当然、既存勢力は、

自身が有する関所と市場利権を手ばさなかった。

それが寺社であり、他国の守護大名であり、

比叡山延暦寺であり、本願寺などの寺社勢力であり、

堺などの商人勢力だったのだ。

 

一度、僕が書いた[不動産]と[市場]を基本に、

織田信長を読んでみてください。

彼が打ち出した政策、どうして合戦になったのか?が

とても良く理解できると思います。

 

※次は、信長の幼少の頃を書くと言っていたのに、

 ついつい、前回の延長上で[楽市・楽座]のことを書いてすみません!

 次回はきっと!

 

オマケ)

あまり知られていないけれど、

[秀吉]は、戦争で相手と戦って、

相手を殺傷して手柄を立て、

恩賞を賜ったことなど一度も無い!

ということをご存じだろうか?

 

秀吉の長浜城主になるまでの手柄のほとんどは、

上記記載の[関所撤廃]と[新市場構築]の手柄なのである

まぁ、出世すると他国攻略(関所撤廃と市場確保、流通センター構築)や

相手大名の説得やヘッドハンティングなど彼の守備範囲は広がるが、

一軍の将となるまでの秀吉の手柄のほどんどは、

戦争での手柄ではないのを理解した上で、秀吉という人を見ると面白い。

 

 

 

では、寝ることとする。

織田信長 その人

  • 2019.11.28 Thursday
  • 02:35

明智光秀を書いたら

必然的に、織田信長も書きたくなった

僕が【家主】の中山手 線です。

 

早速です、

前回、織田信長は一滴も酒を飲めなかったとか、

彼に纏わる話を色々と書いたけど、

今回は、下記の2点に絞って、書いてみたい。

 

・人材登用

・総見寺ご神体(神になった信長)

 

[人材登用]

通説には、

織田信長は実力主義で、身分を問わず、デキル者は大抜擢する!と言われてるけれど、

事実は、まったくもって、そうではない。

通説通りでは、まず、[秀吉]が筆頭だけれど、

[秀吉]は、身分の低い百姓出身者ではなく、豪農出身者であること

少し時代が遡るが、

武田信玄の重臣である高坂弾正も豪農出身で武田家重臣まで出世している。

この時代、豪農出身者が重臣まで出世した人物は、数多く存在する。

 

次に、[明智光秀]。

彼も出身は定かでないが、そもそも13代足利義輝、

つまり、将軍家に使えていた人で、その伝手で15代足利義昭にも使えていた。

美濃の明智氏出身ではなく、その支族である妻木氏出身というのが今の通説だが、

未だ定かではないが、それなりの一族出身者である

 

他に[滝川一益]。

通説では、甲賀の忍者出身と言われているけれど、

事実は、三重の北畠氏氏族である木造氏から派生した名族・滝川氏出身者

 

信長の家臣で、

通説の彼ら3人以外に身分の低い出身から

実力で重臣まで上りつめた家臣がいたであろうか?

少なくとも、僕が知っている武将では存在しない。

 

つまり、事実では、

通説で言われているような低い身分から出世して重臣になった人材等は

どこにもいないのである

 

また、信長は、中央集権国家を目指していたようで、

晩年の天正8年頃から、官僚と武将(軍隊)とを明確に区分けしだしており、

・官僚には行政権の委託(信長の代理人)

・武将には戦争と治安維持権の委託(信長の代理人)

・立法権・司法権は、あくまでも信長1人と定義されている。

■平たく書くと、土地分配制度の廃止と現代のような報酬制への変更

委託とは、江戸時代で例えると[代官]のような権限代理人

明智光秀の支配地、つまり、畿内一円。当時の言葉で書くと

 [天下(畿内)]から改革をはじめているので、

 この改革、つまり、光秀は、信長に彼の支配地である

 行政権と司法権を取り上げられることを恐れたのかもしれない。

 ・当時、[天下]とは[近畿一円の畿内]をさしており、

  現代で言われている[全国統一]を[天下統一]とは言わない。

 

話はとんでしまったが、織田信長の人材登用実績を鑑みる限り、

実力主義は、その通りかもしれないけれど、

身分の低い者が重臣まで出世したという事実はない。

 

それは、あくまでも秀吉自身の自伝である太閤記のねつ造と

後世の作り話なのだ。

 

 

[総見寺ご神体(神になった信長)]

そもそも織田信長という人は、

豊臣秀吉や徳川家康のように家臣に土地を与え、

家臣たちは大名として、そこから年貢を取り、

取りたてた年貢米を商人に売り、

そして、換金するというような支配構造を考えておらず、

最終的には、現代と何ら変わらない

[完全報酬制度]にしようと考えていたのかもしれない。

 

その理由は、

彼である織田家の主たる財源は、

米ではなく、楽市・楽座からの税収であったことは

あまり語られない

 

では、なぜ、織田信長が年貢米よりも、

楽市・楽座からの税収に目を付けたのか?というと、

別に彼が目を付けたのではなく、

彼の祖父である織田信定、父である織田信秀と、

織田家代々、港町からの税収で繁栄してきたからなのだ

 

つまり、織田信長本人のアイデアによるものではない。

彼が織田家を継いだ時、領土的には尾張下4郡しかなく、

尾張下4郡といっても、静岡側の2郡は、ほぼ今川氏に抑えらえており、

残りの2郡も親族や家臣たちの土地が複雑に入り組んでおり、

年貢を取り立てるどころではなかった。

ちなみに、当時の戦国武将たちは、生涯、本拠地を移動することは無い中で、

 織田信長は、本拠地を[那古野城]⇒[清州城]⇒[岐阜城]⇒[安土城]と情勢により

 移動させた信長の戦略は革新的である!等と歴史家たちは絶賛し、称賛するけれど、

 実の所、信長の父親である織田信秀、その人が[勝幡城]⇒[古渡城]⇒[那古野城]⇒[末森城]と

 経済基盤を確立する度に本拠地を移動しているのだ。

 つまり、経済基盤を確立する度に、本拠地を移動するのは、

 信長の戦略ではなく、その父親である織田信秀の戦略を信長が踏襲しただけの話。

 歴史家たちは、どうして、そのことを公にしないのか?が、僕は不思議でならない!

 

さてさて、織田家が主家である尾張守護職よりも経済力を有し、

また、幾度となく他国と戦い、その軍隊を維持できたのか!は、

[津島の港町]と[熱田の門前町]からの経済流通拠点からの税金であった。

織田家代々の収益源が信長を天下まで押し上げたので、

必然的に信長は領土を広げると商業都市をまず押さえている。

有名なのは、商業都市・堺への三万貫の段銭である。

 

つまり、箇条書きにすると、

1.領土を広げる。

2.商業都市を押さえ、確保する。

3.信長領土内の商業都市と新都市間の関所の撤廃。

4.信長領土内の商業都市と新都市間に街路、国道、高速道路を作る。

5.新都市を整備をする。

6.楽市・楽座を開き、ベンチャー企業を育てる。

  ※ベンチャー企業に融資もしたそうです。

7.人が来る。

8.税を取る。

 

この様な手順を繰り返し、

信長の領土内は、他国からの移り住む人も多く、

税収も増えていったようだが、

 

もっと税収を上げる為に、

信長が行ったことは自らが[総見寺のご神体]となり、

[生き神様]になることであった。

 

この[生き神様]事件で、

色々な説がでているが、

 

信長が実際におこなったことを書くと、

1.人が総見寺のご神体(信長)に手をあわせて願い事を書く。

2.信長本人、もしくは奉行が、その願い事を確認する。

3.かなえる事可能なことがらは、本人を呼びかなえてあげる。

  例えば「家が無くなったので、新しい家が欲しい!」と願い事に書いてあったとしよう、

  後日、その願いを書いた人物を呼び、新しい家を与えている。

4.総見寺のご神体(信長本人)に願い事をかけば、

  願い事がかなえられる!と噂になり人が集まる。

5.町が人に溢れ、商業が発展する。

6.税収を増やすことができる。

 

これが[信長が神になる]ことで実際におこった出来事である。

信長の思惑は、本当に、ただ単にこれだけだったようだ。

 

通説や、歴史家が言っている思惑など、何もなく、

信長本人は「単に税収を上げて、国を富ましたい!」と考えただけのようだ。

 

「案ずるより産むがやすし」やね!

 

 

次回、織田信長を書くことがあったら、

その時は、信長の私生活とか、幼少の頃に受けた教育とかを書きますね。

えっ、マジ! そんな教育を受けたの?

ムチャクチャ、可哀想!って必ず思うと思います。

 

 

では、寝ることとする。

明智光秀 その謀反理由[本能寺の変]

  • 2019.11.27 Wednesday
  • 21:51

日本の歴史でまかり通っている通説は、

ほぼ間違いだと思っている

僕が【家主】の中山手 線です。

 

ではでは、

来年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」というタイトルで、

[明智光秀]が主人公だという

 

はてさて、ドラマになるのかな?

[明智光秀]の前半生のほぼすべてが謎に包まれているので、

多分、書き手の想像で書かれれているんだなぁ、、、。

 

ただ近頃は、

テレビやネットで[明智光秀]について話されたり、

[真説]がでてきたりして、謀反人[明智光秀]の汚名挽回がされているが、

やはり、僕は[真実]では無いと思う!。

 

まぁ、兎にも角にも、

[明智光秀]について語るとき前に、

まずは、彼がどの様な人物であったのか?

どの様な性格だったのか?を知る必要があるので記載します。

 

当時、織田信長や明智光秀の身近にいて、

宣教師[ルイス・フロイス]の[織田信長]の人物評価は、

歴史学会で、一部、重用されているにも関わらず、

なぜか? [明智光秀]の人物評価は無視されているのです。

 

では、

その[ルイス・フロイス]が[明智光秀]と実際に会って、会話して、

また、当時の織田軍団の各武将たちから聞いたと思われる

[明智光秀の人物評]について転写してみると、、、

 

[ルイス・フロイスから見た明智光秀の人物評]

1.明智光秀は、その才知、深慮、狡猾さにより、

  織田信長からの寵愛を受けた。
2.明智光秀は、裏切りや密会を好む人物であった。

3.明智光秀は、己を偽装するのに抜け目がなく、

  戦争においては謀略を得意とし、

  謀略を得意とするが上での忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

4.明智光秀は、友人・同僚たちに、人を欺くために72の方法を体得し、

  学習したと吹聴していた。
5.明智光秀は、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主である。
6.明智光秀は、主君織田信長からの恩恵を利することをわきまえていた。

7.明智光秀は、織田信長から受けている寵愛を保持し、

  かつ、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。

8.明智光秀は、誰にも増して、絶えず織田信長に贈与することを怠らず、

  その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて

  調べているほどであり、織田信長の嗜好や希望に関しては、

  いささかもこれに逆らうことがないよう心がけた。

9.明智光秀は、一部の者が織田信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して

   「自分はそうではない」と装う必要がある場合などは、

   織田信長の前で涙を流し、廻りの者が、

  それは本心からの涙に見えるほど偽装が上手であった。

10.明智光秀は、刑を科するのに残酷な人。

11.明智光秀は、独裁的でもあった。

12.明智光秀は、えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

13.明智光秀は、殿内にあってはよそ者であり、

   彼は外様(外来)の身であったので、

   織田家中のほとんど全ての者から快く思われていなかった。

 

どうでしょう!

明智光秀のイメージが浮かび上がりましたか?

 

過去から現在に至るまで、[明智光秀]と言えば、

実直で、マジメで、深く神仏を篤く信仰していて、

保守主義だったと言われてきましたが、

実の所、まったくの正反対のたぐいまれな合理主義者であり、

その上、人を騙す手口や偽装が上手であったと評価しています

 

僕は、個人的には、

宣教師[ルイス・フロイス]の人物評価に対して、

絶対的な支持をしているのですが、

歴史学会のお偉い先生方は、評価していないみたい。

 

お偉い先生方やそれを信じている歴史好きは、

[明智光秀]と実際に会話するどころか、

会ってもいない江戸時代の方々が書いた軍記物語や

文献を真実だったように話している。

 

まぁ、それはそれとし、

宣教師[ルイス・フロイス]は、

当時、[明智光秀]と何度も会っているし、会話もしていて、

かつ、当時の織田家の諸将とも会って会話もしている。

その様な人物が書いた文献は、

外国人だから信じない!ではなく、

外国人だから冷静に見ることができたのではないのか?と

どうして思わないのだろうか、、、。

 

では、

次に、[明智光秀]が[長篠の戦い]から

[本能寺の変]と言われる[謀反]をおこすまで、

時系列的に、彼の行動を転写してみます。

 

■天正3年(1575年)

 ・高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加。

 ・織田信長より、丹波国攻略を任される。

 

■天正4年(1576年)4月

 ・石山本願寺との天王寺の戦いに出動。

 

■同4年5月5日

 ・天王寺合戦で石山本願寺に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死し、

  危ういところを織田信長が来援し助かる。

 

■同4年5月23日

 ・過労で倒れる(しばらく療養)
 

■同4年11月7日(1576年11月27日)

 ・正室の煕子が坂本城で病死

 

■天正5年(1577年)

 ・雑賀攻めに従軍する。
 

■同5年10月

 ・松永久秀の信貴山城の戦いに参加して城落させる。
 ・丹波攻めを再開。手始めとして亀山城を落とし、拠点とする。

 ・八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。

 

■天正6年4月29日

 ・毛利攻めを行う羽柴秀吉への支援軍として播磨国へ派遣
 

■同6年6月

 ・羽柴秀吉と共に播磨国神吉城攻めに参加。
 

■同6年10月下旬、

 ・織田信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加。

 

■天正7年(1579年)

 ・丹波攻めは最終段階に入る。

 

■同7年2月

 ・八上城が落城。
 

■同7年8月9日(1579年8月30日)

 ・黒井城を落とし、丹波国を平定。
 ・細川藤孝と協力して丹後国も平定。

 

■天正8年(1580年)

 ・織田信長は明智光秀を出し褒め称え、

  この功績で[丹波一国(約29万石)]を加増されて合計34万石を領する
 ・さらに、南山城領(山城国南半分[京都])の支配地も加増される。
 ・この頃、亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名。

 ・黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を配置。
 ・丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の

  近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属。
 ・これにより明智光秀の支配地は、丹波国、滋賀郡、南山城(山城国半分)を

  含めた、近江から山陰へ向けた畿内全域(240万石ほど)となる

    ※織田軍団中、破格の出世。

 

■天正9年(1581年)

 ・安土城の左義長の爆竹と道具の準備担当。

 ・京都御馬揃えの運営責任者に任命。
 

■同年6月2日(1581年7月2日)

 ・織田家には無かった軍法を、明智光秀が家法として定める[明智家法]。
  後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだし

  そのうえ莫大な人数を預けられた。明智一族家臣は子孫に至るまで

  信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。

 

■天正9年8月7・8日(1581年9月4・5日)

 ・光秀の実妹(義妹の説あり)の「御ツマキ殿」が死去(織田信長側室)
 

■同9年12月4日(1581年12月29日)

 ・[明智家中法度]5箇条を制定。
 ・織田家宿老・馬廻衆への儀礼、他家との口論禁止及び喧嘩厳禁、違反者即時成敗・自害。

 

■同9年12月

 ・明智光秀の重臣・斎藤利三が、同織田家家臣である稲葉家家臣・那波直治を引き抜く

 

■天正10年1月

 ・茶会を催し「床の間に織田信長自筆の書を掛ける」

 

■天正10年3月5日(1582年3月28日)

 ・武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍。

 

■同10年(1582年)5月

 ・徳川家康饗応役であった任務を解かれ、

  再度羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられる

 

■同10年(1582年)5月27日

 ・織田信長は、明智光秀に那波直治を稲葉家へ帰すように命じる

  ※明智光秀、織田信長の命令に従わず、拒否。

 

■同10年(1582年)5月30日

 ・織田信長、斎藤利三に切腹を命じる裁定を明智光秀に下す

 

■同10年6月2日(1582年6月21日)

 ・早朝に出陣。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げる。

 <京都へ向かう理由>

 ・軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのこと」

  として京都へ向かう。

 ・雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、

  信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたらしい。

 

<<天正10年6月2日:本能寺の変>>

 

時系列的に見てみると、

明智光秀が「なぜに謀反をしたのか?」の察しがつくと思います。

 

彼の大きな転機となっているのは、

3つあります。

1)天正3年11月7日:正室の煕子が坂本城で病死。

2)天正9年8月7・8日:実妹の「御ツマキ殿」が死去(織田信長側室)。

3)天正10年5月30日:織田信長、斎藤利三に切腹を命じる裁定を明智光秀に下す。

 

見ての通り、1)と2)では、明智光秀の行動に異変は無いが、

3)の彼の右腕と言われる筆頭家老[斎藤利三]に

「切腹命令」が織田信長から出て、直ぐに[本能寺の変]となっていることに

注目して頂きたい!。

 

そもそも明智光秀は、

織田家中では、ご法度ではなかったようだが

人道的ではないと思われる

同じ織田家家臣である[稲葉一徹]の[稲葉家]から2人も引き抜きをしているのである。

1人は、右腕と言われる明智家筆頭家老[斎藤利三]

もう1名は、[那波直治]だ。

※柴田家(柴田勝家)からも引き抜いており、他もあるようだ

 

2度目は、さすがの[稲葉一徹]も怒ったらしく、

織田信長へ訴えて、訴訟を起こしている。

その裁定が、[斎藤利三]の切腹命令である

 

過去、現在の歴史家の諸先生は、

ここを見落としているのか?

問題にしていないのか?は解らないけれど、

誰も口にしない。

 

そもそも明智光秀は、織田家中で引き抜ける者がいれば、

節操なく引き抜いている。

あの秀吉でさえ、そんなことはやっていない

故に、[ルイス・フロイス]も書いているように

明智光秀は「織田家中のほとんど全ての者から快く思われていなかった」

 

つまり、長篠の戦いから本能寺の変までの

彼の行動を時系列的に見てみると、、、

織田信長が気に入っていた彼の側室である光秀の実妹が亡くなったことで、

織田家中での彼の強力な味方は、もう誰一人いなくなり、

追い打ちをかけるように、

明智光秀軍団中核・最大の兵数(3,000)を擁し、

かつ、右腕である筆頭家老・斎藤利三に[切腹命令]がでれば、

明智光秀としては、織田家での先行きが無くなったも同然と

なったのではないだろうか。

 

故に、[ルイス・フロイス]曰く[計略と策謀の達人]であるはずの光秀が、

タイミング的にも、機会的にも、最大のチャンスである[この時]を見逃さず、

後先も考えない、突発的な[謀反]に踏みきったと思われる

 

また、[謀反をする]前夜、

斎藤利三たち重臣と相談した!と記録されているが、

そもそも、相談した相手である斎藤利三本人に、

織田信長から切腹命令がでているのである。

 

信長を討てるこの[チャンス]を力説したのか?

この先、織田家最大派閥である自らの軍団が

瓦解してゆくであろうことを説明したのか?

 

事実は解らないが、

[本能寺の変]が無ければ、斎藤利三は、

変の次の日、6月3日には切腹しなければならなかったのは事実。

 

にしても、宣教師[ルイス・フロイス]が評した通り

明智光秀、彼のその行いから人望なく、

[本能寺の変]後、誰も彼に味方しなかったのは事実

 

彼は、通説の通り、

織田信長から無理難題を命ぜられたので謀反をしたのではなく、

信長の側室である明智光秀の妹が亡くなったことにより

最大の後ろ盾をなくし、出世どころか、

降格もしくは織田家から追放になることが見えていたこと

追い打ちをかけるように、筆頭家老に[切腹命令]が下ったこと

 

謀反する以外に

生き残る道は無かったと思われる。

 

 

皆さんは、どう思われます?

 

 

 

では、寝ることとする。

 

[織田信長]の偉大さを語るなら、、

  • 2019.04.26 Friday
  • 02:10

僕が間違ってんのかなぁ~、、

まぁ、頭が悪いから多分、

そうなんだろう!けどと、首をかしげている

僕が【家主】の中山手 線です。

 

近頃、とみに、テレビを見ては、

また、歴史小説を読んでは、

そういう事じゃないだろう!って

思ってしまう僕。

 

今日、テレビで放映された番組で、

[織田信長]って、本当にスゴイんですよねぇ~!って

[織田信長]のこういうところが偉大なんですよ!って

コメンテーターや歴史小説家や大学の教授が色々な例をあげて

熱く語っていたんだけど、

 

いやいや、、、

それは[織田信長]ではなく、、、

そもそもの視点が違うんじゃね?

解釈が間違ってるんじゃね?

 

実は、[織田信長]さんって、

調査・研究されだしたのは明治以降だし、

まだ、100年ちょっとぐらいしか経過してないわけ。

その中で、第一級資料を元に皆が語って、

[織田信長]がスゴイ!って言っても、

そんなところが偉大じゃないんだって!

 

それよりも彼の性格とか、、、

あの時代での彼の思考回路とか、、、

あの時代での彼の視点を語り合った方が良いと思う。

 

例えばね。

[織田信長]を語っている学者や、

彼を好きなコメンテーター等は、あまり語らないけれど、

 

[織田信長]は、一滴たりともお酒を飲まなかった(飲めなかった)!

[織田信長]は、理由もなく人を罰する人ではなかった(短気でもなかった)!

[織田信長]は、自身が理解し、運用・保守ができるモノと者以外は身の回りにおかなかった!

[織田信長]は、すべてに[白][黒]をつけないと気が済まない性格だった!

[織田信長]は、不思議な現象や物事に対しては、

          その原因と結果を明確にしなければ気が済まない性格だった!

 

取りあえず、ざっくり書いたこの5点だけを鑑みても

彼がどのような性格をしていたのか?

おおわくの想像はできると思う。

 

次に、その想像した彼の性格を解釈する前に

必ず、必ず、必要かつ大切なことは、

安土桃山時代と言われる時代に生きていた人々の

物事を捉える視点とその解釈を考えなければ、

[織田信長]という人の偉大さ理解できることはない!

と思うんだけどなぁ、、

 

歴史を語るには、

必ず、その時代に生きていた人々の

物事を捉える視点とその解釈を考えなければ、

どんな資料を読んでも、

現在の僕たちの視点と捉え方で解釈をした場合、

まったく違うモノになってしまうハズなんです

 

例えば、

安土桃山時代と言われる時代。

常識のベースとなっているモノは、仏教学。

この世は仮の姿で、あの世が主たる世界であり、

この世での難病の原因は、前世で罪を犯したからとか、、、

自分の家の鬼門に鬼が居座っているからとか、、

現代の解釈では理解しがたい物事の捉え方をしているんだよね。

 

つまり、そんな世界で生きている人々の中で、

唯一、現代人に近い視点と解釈をしていた人間。

それが[織田信長]なんだよね。

 

なんて偉そうに書いてしまったけど、

でも、[織田信長]の本当の偉大さを語る人って

マジ、少ない。

 

例えば、

―ゞ誼賃里ら武力と教外の収入源を取り上げた。

現在のように道にランクを付けて、区分けをした。

 (例:高速道路、国道、県道、町道、村道、市道、農道等)

2瀛召亮鑪爐鯏一した。

だ農を統一した。

ダは世鯡Jにする為に、公開討論を展開した。

 

本当は、もっとあるけど、

ザックリでも、これだけある。

 

でも、あの時代に上記の~イ裡厩猝椶世韻任

実現するのは大変なのに、

彼は次々と実現させていくんだよね。

そりゃぁ、廻りの人間からすると異常者であり、

[第六天魔王]と言われるよね。

 

 

[織田信長]の偉大さを考える場合、

現代では、あまりにも当たり前になっている物事が、

実は、あの時代に彼が日本で初めて施行した!ってこと。

 

テレビでどこかの大学の教授たちが語っていることなんて、

実は、歴史上、どうでも良いことで、

そんなことで[織田信長]が偉大だ!っていうのは

間違いなのだ!っと思う僕。

 

とんでもなく長い槍を採用した!とか、、

考えられない数の鉄砲を使って戦争した!とかではなく、

 

戦争するには、とんでもなくお金がかかるんだって!

で、[織田信長]がおこなった政策は? ⇒ (ちなみに、楽市楽座ではないよ!)

兵隊が移動するには、移動する道路が必要なんだって!

で、[織田信長]がおこなった政策は? ⇒ (ちょっと上記に書きました)

彼が一番気にしてたのは、天皇や将軍ではなくて、世論なんだって!

だから、[織田信長]は世論を味方につけて何をした? ⇒ (その前に亡くなっちゃったけど)

どうして、そんな根本的なことを説明しないんだろうね?

 

今日、テレビを見て、

憤慨ちやったもんだから、

ついつい書いてしまいました。

 

ちなみに、

[織田信長][無神論者]ではありませんし、

彼が[徳川家康]の正室[築山殿]と長男[徳川信康]殺害命令を出したのも間違いです。

このことに関しては、

[織田信長]は、「徳川殿の家の中の揉め事なので、自身は口を出さない」と

彼の手紙にちゃんと書いているのが事実です。

この辺りも、誰も語らないんですねぇ~、、、

 

あ~、スッキリした!

では、寝ることする。

斜視点・壬生の狼[新撰組]

  • 2017.12.02 Saturday
  • 21:15

でも、やっぱり[天然理心流]を習いたかった

僕が【家主】の中山手 線です。

 

さてさて、

[斜視点]とタイトルに書いたのは、

ネットで見ても、誰もが詳しく説明している[新選組]に対して、

僕が、今さら[新説]や[異説]を書くためではなく、

彼らが なぜ? 壬生の狼と呼ばれたのか?」に対して、

ちょっと書き残しておこうかな?なんて考えた次第です。

、、、ってね!

 

 

ではでは、

・幕末最強の武装集団!

・向かうところ敵無しの剣術の超達人集団!

・幕末最強の剣士たち!

などと言われてはいるけれどね。

 

実のところ、[新選組]​の隊士は、

相手1人に対して、5〜10名で襲うのが基本なのを知っているでしょうか?

まぁ、だから[壬生の狼]と言われる所以なんだけどね。

 

当時、[人斬り]と恐れられた

・岡田以蔵

・中村半次郎

・田中新兵衛

・河上彦斎

・佐々木唯三郎

 

彼らの暗殺は、

[新選組]のように集団ではなく、

あくまでも、たった一人でおこなう暗殺なので、

基本は[一対一]

それも、アクシデントがない限りは、

正面から相手を斬っている

 

そう!

新選組のように[後ろ]から斬りつけはしない!

だまし討ちなんてしない!

 

えっ?

マジ??

知らなかったですか?

 

特に[新選組]内でも、[人斬り]と恐れられた

・大石鍬次郎

・斉藤 一

 

だけど、彼らが1名で[人を斬る]時に共通している条件は、

〜蠎蠅鯏タ譴気擦道損Δ垢襦

⊃温みを確認して襲う。

C舂匹なった振りして

 突如、後ろから不意打ちをする。

 

そして、彼らが集団で襲う時の条件

〜蠎蠅鯏タ譴気擦襪、

 泥酔している時を襲う。

⊃温みを確認して襲う。

まずは、後ろから不意打ちをかけ、

 致命傷を負わせた後に、正面からとどめを刺す。

 

この3原則が彼らの

[暗殺の掟]だったよう。

 

 

ではでは、

・幕末最強の武装集団!

・向かうところ敵無しの剣術の超達人集団!

・幕末最強の剣士たち!

と言われている彼らが

どうしてそんな卑怯な手を使っていたのか?

ご存じだろうか?

 

それは、彼らの流派である[天然理心流]は[抜刀術・居合術]ではなく[剣術]だったという事。

つまり、[抜刀術・居合術]ではないので、[初太刀]で人を斬殺できないということなのだ。

逆に言うと、相手が[抜刀術・居合術]であるのであれば、相手の[初太刀]を外せば

彼らの撃剣の実力が存分に発揮できるという事。

あっ、[初太刀]を外すことができれば!の話。

 

さて、幕末の時代

[暗殺剣]は、[剣術]よりも[抜刀術][居合術]の方が恐れられていたらしい。

故に、[剣術]以外に、[抜刀術][居合術]を習得している武士も多く存在し

[新選組隊士]それぞれの実力も、相当なモノだったとは思うけれど、

彼らが相手1人につき5〜10名で襲ったという事は、

それほど相手が手強かったようだ。

 

 

最後に

[新選組]がそれほど恐れていた[抜刀術][居合術]だが、

にも関わらず、彼らの練習科目に[抜刀術][居合術]は含まれていない。

・砲術[西洋式鉄砲・大砲]

・撃剣[剣術]

・槍術

・馬術

・柔術

 

なぜだろう??

 

それはやねぇ〜!

彼らの仕事は、[暗殺]ではなく、

[不逞浪士の取締りと市中警備]だから、

彼らに[抜刀術][居合術]は必要なかった!わけやね。

 

 

それにしても、

 

1人を集団で襲うのは、

 

まさに[狼]でござる!

 

 

では、寝ることとする。

[楠木正成]の出自

  • 2017.11.26 Sunday
  • 08:16

近頃、色々な文書が発見され、

過去に習った歴史や定説に多大な影響を与えるとともに、

新たな新説が浮上したりし、

ならば!我が実家のヒーロー[大楠公(楠木正成)]の新説でも書いてみるか!

なんて僕が【家主】の中山手 線です。

 

さてさて、[楠木正成]と言えば、

南北朝時代、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府の倒幕に貢献し、

[建武の新政]で足利尊氏赤松則村(円心)らと共に天皇を助けたことで有名な武将なのだ!

 

ただ、彼の出自には諸説あり、

[1]河内国の土豪説

[2]悪党・非御家人説

[3]北条得宗家の被官・御家人説

の3つがあり、この内、どれが事実なのか?

もしくは、事実に近いのか?を数年かけて調べてきた。

 

[1]~[3]まで1つづつ説明をすると、かなりの文字数になるので、

ザックリ書くと、[3]の[北条得宗家の被官・御家人説]が一番近いと僕は考えている。

その理由はと言うと、、、

 

鎌倉時代、当時の武士を鑑みると、

その氏で[独立した家]は、鎌倉幕府から与えられた荘園や地頭の領地を苗字として名乗る。

例えば、毛利氏の場合、鎌倉幕府創業以来の功績者である[大江広元(本姓・大江氏)]の

四男[大江季光]が[相模国愛甲郡毛利荘(現在の神奈川県厚木市周辺)]を[本貫]とした事による。

さて、この[本貫]とは何か?って簡単に書くとね。

 

[本貫]とは、現代でいうと戸籍謄本の本籍地をその土地にすること。

律令制では、氏族集団の発祥の土地をさす。が本貫の意味とされております。

 

従って、[大江季光]の場合は、[毛利荘]に本籍地にうつしたので[毛利季光]と名乗り、

彼の嫡流と言われる子孫は、[毛利]を苗字とした!と言うことだ。

あっ、ちなみに鎌倉時代での[毛利]の読みは、[もうり]ではなく[もり]と読みます。

 

そして、ここは簡易的な説明ですませるけれど、

[毛利季光]の孫にあたる[毛利時親]が安芸国高田郡吉田荘と越後国刈羽郡佐橋庄、

南条庄を領していたが、安芸国高田郡吉田荘に移り住んでからは、

本家は本貫を[相模国毛利荘]においたままなので[毛利氏]を名乗り、

分家は、本家領地の周辺の土地を相続し、その相続した土地を本貫とした為に、

分家は、広島県安芸高田氏吉田町吉田村近辺の在地名を苗字とし、

同じく、越後国刈羽郡佐橋庄、南条庄周辺の在地名を苗字として名乗った。

例えば、毛利元就時代に活躍した桂氏坂氏福原氏志道氏等がそれ。

また、上杉謙信時代に活躍した北条氏安田氏南条氏等がそれ。

 

つまり、楠木氏の場合、

北条得宗家の所領であった駿河国楠木村に北条得宗家被官が居住し、

本貫としたことが考えられる。

※被官=北条家に仕える武士

 

なぜ?そのように考えられるかと言うと、

何かしらの事変(霜月騒動か?)があり、楠木氏の所領である駿河国楠木村が

 鶴岡八幡宮に寄進され、[楠木正成]の父親である[楠木正遠]と彼の嫡男である

 [楠木正俊(俊親とも伝えられる)]は、鎌倉の地で亡くなっている事。

長崎氏の本家である北条得宗家内管領[平頼綱]が

 鎌倉幕府最後の有力御家人である安達氏を滅ぼした[霜月騒動]か?

 それとも [平禅門の乱]か?、は確証を得ていないが、

 元服前(成人前)の[楠木正成]およびその兄弟[姉、妹、正季、正家、正氏]、

 そして、彼らの叔父[楠木正康][楠木高遠]達が[毛利時親]の隠居領近くの

 安達氏所領であった観心寺領へ移っている事。

[毛利時親]が、彼の隠居地である[河内国加賀田村]と資料には書いているけれど、

 実際は[加賀田]ではなく、もっと山深い[唐久谷(現在も邸宅は現存)]と言う場所。

 個人的には、よく友達と夜に肝試しに良く行った場所に近いが、

 とにかく相当な山の中なのだ。

 ちなみに、我々の小学校は[加賀田小学校]です。

 話がそれてすみませんでした! さて、そんな山の中に[毛利時親]は邸宅を構え、

 その場所に少年[楠木正成]は毎日通い、大江流兵法を習っていたとの事。

 どのような理由で、[毛利時親]と[楠木一族]の親交があったのか?は不明だが、

 おそらく,了変の折り、[毛利時親]と正成の父[楠木正遠]との間に何かしらの親交があり、

 その伝手を頼って、落ち延びたのだろう。

[楠木正成]がまだ[多聞丸]と名乗っていた少年のころ、

 山深き[毛利時親]邸へ毎日通っていたのは上記に書いたが、

 ある日、野党に矢を射かけられて襲われ、その場で伏して難を逃れた!

 という場所に[矢伏神社]という本当に小さな神社がある。

 僕の友人の実家の家の前にあるのだが、これは神社と言うよりも[祠(ほこら)]に近い!

 その友達と「伏せるぐらいなら杉の木に隠れるけどな!」って言うぐらい

 大木とは言えないが、中学生が隠れるぐらいの杉の木が何本も立ち並んでいる場所なのだ。

 あっ、僕らが中学生になる前だったから、今から41~42年前だけど、、、

[毛利時親]の正妻が、当時最大の権力者であった北条得宗家内管領の

 [長崎円喜の妹]であること。

 また、彼[毛利時親]は[長崎円喜]を嫌い河内国の加賀田村へ隠棲した事実があること。

 ちなみに、鎌倉幕府末期(14代執権・北条高時から16代・北条守時迄)の

 北条得宗家外戚として権勢を強めた[安達時顕・高景 / 父子]がいる。

 その[安達高景]は[長崎円喜の娘]を娶っているので、

 [毛利時親]とは義理の叔父・甥の関係になる

 この関係を鑑みると、[楠木正成]一族が安達領の観心寺に移った所以も想像できる

[楠木正成]が幼少の頃に住んでいたとされる観心寺は[霜月騒動]の折り、

 安達氏から北条得宗家の所領になっている

 但し、管理は[安達時顕・高景]父子がおこなっていたようである。

С倉幕府滅亡前に、[楠木正成]は、北条得宗家・北条高時の命により、

 反幕府勢力の摂津国渡辺党を打ち滅ぼしている事実があること。

┃同様に、北条高時の命により、紀伊国湯浅氏を打ち滅ぼしている事実があること。

鎌倉幕府六波羅探題の命により、大和国の越智氏を撃滅している事実があること。

楠木氏と同じく、北条家家人の[赤松則村(円心)]の正妻が[楠木正成の姉]であること。

 また、[赤松則村(円心)]は、[楠木正成]と共に後醍醐天皇に味方をし、

 ほぼ同時期に倒幕の挙兵をしていること。これは偶然ではないと思われるが如何に!。

 

ただ、楠木氏と赤松氏の違いは、同じ北条家の家人(被官)でも、

楠木氏 ➡ 北条得宗家被官:北条得宗家の家人であり鎌倉幕府御家人でもあった。

赤松氏 ➡ 北条家被官:北条氏分家の家人。

そういう面からすれば、後醍醐天皇から[]の家紋を下賜された[楠木正成]だが、

[赤松則村(円心)]は、何も下賜されていない

つまり、[足利氏]と[新田氏]であれば、同じ[清和源氏]でも、

血統からすれば[新田氏]の方が[源氏嫡流]に近いとしても、

鎌倉時代を通じて、北条得宗家と姻戚関係を結び、幕府の要職を担い、

朝廷からの官位も受けていた[足利氏]の方がランクが上でかつ、

清和源氏嫡流あったように

 

同じ[北条氏]の被官(家人)とは言え、

血統からすれば[村上源氏]出身の[赤松氏]の方が上だけれども

北条得宗家被官(家人)の[楠木氏]は、

[赤松氏]よりもランクが上であったということである。

 

以上の事を踏まえて考えると、

[楠木正成]の出身地は、北条得宗家被官(家人)であり、

出自は[駿河国楠木村]と言うことになる。

 

当然、本貫の地である[楠木]を苗字としている為、

(河内国のどこを探しても[楠木]という地名は無い)

本家は本貫の地(駿河国楠木村)を苗字として名乗ってはいるが、

叔父や弟たちは[分家]として、河内国の各所を本貫の地とした為、

[和田氏]や[石川氏]、[橋本氏]、[神宮寺]等の河内国の地名を苗字として名乗ったわけである

また、[楠木正成]の譜代の家臣として、[宇佐美正安]という人物が登場するが、

[宇佐美氏]は、伊豆国宇佐美荘を本貫とする氏族

つまり、[楠木氏]の本貫の地とは、かなり近い場所であり、

また、[宇佐美氏]も[楠木氏]同様、北条得宗家の家人でもある。

楠木一族に[和田]を名乗る人物が特に増えだしたのは、

 湊川の戦い以降で、[楠木正成]及び一族18人が亡くなった後からで、

 理由として考えられるのは、楠木一族の所領減少が問題であり、

 多分、和田の所領しか残らなかったのだろう。

 石川や神宮寺、橋本は、北朝勢力に取られてしまったと考えられる。

 

 

 

最後に(おまけ)

 

楠木氏と言えば、菊水の家紋

菊水の家紋と言えば、楠木氏

 

が、[楠木正成]が後醍醐天皇から[]の家紋を下賜されるまでの

楠木氏の家紋は何だったのか?

これは以外に知らない人が多いと思う。

実は、この家紋なのだ!

[山吹に流水]

この家紋が本来の楠木氏の家紋だったようだ。

 

後醍醐天皇から[菊のご紋]を下賜された折り、

[山吹]を[]に入れ替えて[菊水の家紋]を考案したと思われる。

 

通説では、

天皇から家紋を下賜された際、あまりにも恐れ多いからと[菊]を半分に、

半分を[水]にしたことで生まれた家紋と言われている。

 

が、よく考えて欲しい。

恐れ多いからと[]を半分にすることは理解はできるが、

どうして残り半分を[水]にしたのだろうか?

その[水]は、どこからきたのだろうか?

そんならちのないことを何十年も考えてきたけれど、

 

そもそもの[楠木氏]の家紋はなんぞや?って考えて、

色んな文書を読み、探して、ようやく辿り着いてみたら、

[山吹に流水]の家紋だった!

 

あっ、[山吹]を[菊]と入れ替えただけなのね!

 

単純だけど、

これで[菊水]の紋が生まれた理由が解ったのだ!

 

そうそう、

そもそも楠木氏の本姓は[橘氏]とされる。

この[山吹に流水]の家紋は、[橘諸兄]が好んだとされる[山吹]と[流水]を

組み合わせた家紋との事。

橘氏の家紋は[]だが、橘氏の傍系でも[山吹に流水]の家紋を使っている氏族はすくないという。

 

では、寝ることする。

宮本武蔵への疑問

  • 2017.10.17 Tuesday
  • 22:50

実は、宮本武蔵が大好きな

僕が【家主】の中山手 線です。

 

過去に[宮本武蔵の実像]というモノをアップしたけれど、

アクセス数がかなり多いので、

もう少し違う視点からみて、

再度、宮本武蔵への疑問を投げかけてみたい。

 

なぜならば、

彼が生きた時代の数多い剣豪の中で、

宮本武蔵ほど色々な面で[不思議(疑い)]の多い人物]も少ないからだ。

 

まず、

彼が若い頃の剣術流派は、[当理流]

これは彼の父と言われている[新免無二][当理流]だからだ。

 

そして、いつ頃なのかは明確ではないらしいが、

その[当理流]を、彼なりに発展させて[円明流]という流派を興し改めたらしい。

また、その[円明流]を発展させて[二天流]を興し改め、

最後には、[二天流]を色々な面から纏めて[二刀一流]、最後には[二天一流]へと改めている

 

ちなみに、彼の流派を色々調べてはいるけれど、

調べる度に先に書いた通りではなく、

ある書物によれば、[円明流]⇒[二天一流]になっていたり、

彼が起こした流派名の組合せは色々と異なる。

が、結局は、彼が亡くなる晩年には、[二天一流]におさまったみたいなのだ。

彼がもう少し長く生きていたら、また、流派名が変わっていたかもしれない!

と思うのは僕だけだろうか??

 

つまりだ!

剣豪多し!と言えども、

彼ほど、自身で興した流派名をコロコロ変えた剣豪も珍しい!

それも、名前だけではなく、

僕の知る限りでは、同じ人物が興した流派なのに、

名前が変われば、刀術の内容も異なる!というのも珍しい!

本当に不思議だ!

 

次に、彼が誇示している[強さ]だ!

彼自身が晩年に書いた[五輪書]よると

「我、若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負す。

その相手、新当流有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち、

十六歳にして但馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、

二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会い、

数度の勝負を決すと言えども、勝利を得ざるという事なし。

その後、国々、所々に至り、諸流の兵法者に行き会い、

六十余度まで勝負すといえども、一度も、その利を失わず、

その程、年十三より二十八、九までの事也」

と書いている。

 

つまりだ!

この六十余度の対戦者の中で、

明確に名前を書いている人は、[新当流・有馬喜兵衛]のみで、

その有馬氏以外では、[但馬国秋山]という強力の兵法者と言うことになる。

 

となると!

講談で書かれている[巌流・佐々木小次郎]との勝負が真実とするのなら、

[巌流・佐々木小次郎]は、[新当流・有馬喜兵衛]よりも無名であり、

名前を書く程でもない剣豪だったことになる。

 

でも、[佐々木小次郎]は、

中条流の免許皆伝を許された古文書(免許皆伝そのもの)も存在するし、

実際に、彼に免許皆伝を渡した[鐘巻自斎]も有名な剣豪で、

その[鐘巻自斎]に免許皆伝を渡した[富田勢源]剣豪を通り越して剣聖に等しい

 

が、[有馬喜兵衛]という剣豪に至っては、一切、不明の人物なのだ。

[宮本武蔵]と年代が近く、[塚原卜伝]が創始した新当流の流れをくむ剣豪を探してはみたけれど、

これまた一切、見当たらない。

強いて書くと、[有馬大和守乾信]その養子である[有馬満盛]その子[有馬満秋]の3名。

が、この3名。

共に、剣豪としては有名な方で、彼達が[宮本武蔵]と勝負をしたとするのであれば、

少なからず、[宮本武蔵]は、徳川紀州藩の剣術師範になっていたはずなので、

この3名の[有馬氏]とは関係ないと思う。

ちなみに、[有馬大和守乾信]その養子である[有馬満盛][徳川家康]に新当流の奥義を伝授し、

その子である[有馬満秋]は、徳川紀州藩の剣術師範となっている。

 

[宮本武蔵]

少なくとも、この僕なんか足元にも及ばない

桁外れの強さをだ!とは認識している!

けれど、彼に対する僕の疑問は、

どうして、彼は自分が生きたその時代な中で、

有名な剣豪と勝負をしなかったのだろうか?

 

将軍家指南役の[柳生宗矩]は、立ち合いが禁止されているので無理だとしても、

彼の時代、現代になっても名前を残している剣豪は30名を超える。

因みに、彼とはほとんど同年代で、しかも同じ二刀流の[山口流・山口卜真斎]

その他でも、[新陰流・木村助九郎]や、[一刀流・小野忠明][無住心剣流・針ヶ谷夕雲]

[直心流・神谷伝心斎]等の当時でもチョー有名な剣豪はいくらでもいた!

が、宮本武蔵が、そのような剣豪達と立ち会った記録はどこにもない。

唯一あるのは、彼が晩年にさしかかる前、尾張国に留まったおり、

あやつが宮本武蔵。できる奴!」と尾張柳生の[柳生利厳]が、

[宮本武蔵]すれ違いざまに思ったという記述が尾張柳生の文献にあるらしいとのこと。

が、ただ、その記述は何百年後かに誰かが書いた文献で、

[柳生利厳]自らが書き残したモノではないらしい。

(僕自身が、実際に目にしていないので、何ともいえない)

 

宮本武蔵

彼は自分自身で[日本一の剣豪]と言い残しながら、

同じ時代で、しかも年齢的にも近く、

彼よりも有名な剣豪とは、誰一人立ち会っていないのが、

僕の彼への疑問なのだ!

 

ならば、

「俺は日本一の剣豪だ!」なんて

豪語しなきゃ良いのに!

なんて思ってしまう!

 

まぁね。

正直、当時の剣豪の方々の数や情報量を考えると、

有名な剣豪の方と勝負するチャンスは、

なかなか得ることができなかった!とは思うんだけれどね。

 

でもね。

せめてね。

1人で良いからね。

著名な剣豪の方との交友軌跡等は残して欲しかったな!

??!

僕がまだ知らないだけかな?

 

 

では、寝ることとする!

剣豪についての所感

  • 2017.10.16 Monday
  • 22:02

居合道を始めたばかりの超未熟者である

僕が【家主】の中山手 線です。

 

ではではと、、、

歴史をちょっと調べてみると、

わが国に発生した幾千もの剣術流派(途絶えた流派を含め)は、

下記の3流派を[遠祖]としているみたいだけれども、

現在、大きくわけると[3流派]に大別される。らしい。

 

[遠祖]

天真正伝香取神道流(飯篠長威斎家直)

陰流(愛洲移香斎久忠)

念流(念阿弥慈恩=相馬四郎義元)

 

[大別される3流派]

天真正伝香取神道流(飯篠長威斎家直)

 ■代表的な剣聖:新当流 / 塚原卜伝

陰流(愛洲移香斎久忠)

 ■代表的な剣聖:新陰流 / 上泉伊勢守信綱

中条流(中条兵庫助長秀) ※中条流は念流から分派した流派

 ■代表的な剣聖:一刀流 / 伊藤一刀斎

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さてさて、、、

その剣術の遠祖達から江戸初期までの[剣豪]と言われた方を調べてみた。

つまり、年代的には、

室町時代初期(1350年)から江戸時代初期(1600年)までの[250年]

 

この250年の中で、歴史に名前を残した剣豪は[130人]ほど!

ざっくりの調べて130人だから、ちゃんと調べたらその倍以上になるかも?

ってことは、当時の日本って広かったんですね!

 

そりゃそうだ!

今の時代と違って、情報伝達が未熟な時代。

鹿児島県で有名な剣豪が、北海道で有名な剣豪を知る由もない!

淡路島一番の剣豪が、新潟県の佐渡ヶ島一番の剣豪を知る由もない!

そんなことを考えたら、どれだけの剣豪がいたのか?と思う。

 

歴史に名前を残した剣豪は、

自らが極めた剣術をもって[就職活動]をしたので、

その国や藩の記録に名前が残っているが、

富や名声を欲しなかった剣豪もいたのではないか?と思われる。

 

なぜなら、

剣術をもっての就職活動と言うのは、

当時、[負ければ、即、死]に直結していたし、

剣術と哲学も直結していて、

悟りを得ると富や名声を求めない剣豪もいたはず!なんて考える。

 

あっ、

急に話が変わってしまうが申し訳ない!

 

そもそも、何についても例外はあるが、

通常、どんな剣豪でも、戦(いくさ)をはじめ、人を斬る行為の場合、

実際に斬れる人数は[2人]といわれている。とのこと。

[3人目]は、[息切れ]と[刀の刃こぼれ]と[血糊]で、

相手を傷つけるのがやっとだったらしい。

 

これはこの話を居合道の師範から聞いた後、

「ちょっと試してみるかい?」となり、

実際に試して頂いたんだけどね。

 

まず、斬りかかってきた相手の[刀の刃]を

こちらの[刀の刃]で受けるとどうなるのか?という話。

 

TVや映画の時代劇では、火花が散って滑っているけれど、

実際には、[刃]に[刃]が食い込んで、

滑るどころか、まったくもって動かない!

 

どうしてだぁ???

お互いの[刀の刃]が食い込んでるもんだから、

食い込んだ位置で固定されちゃてて動けない!

それでもって相手が[力技]で押さえ込んでくるもんだから、

こっちも負けじと[力技]で押し返してしまう

この攻防を続けるしかないのだ!

 

でも、その食い込んだ[刃]を外す方法として、

自分の[刀]を寝かせて、食い込んだ[刃]を外し、

相手の[刀]を、自分の刀の[鎬(しのぎ)]をつたって流していく、、、。

が、未熟者の僕などは、自分の[刀]を寝かせた瞬間に[力負け]してしまう。

 

まぁ、剣豪ならこんなことはいとも簡単なんだろうけど、

いずれにしても、たったこれだけの単純な動作というか、

この攻防ですら、僕の想像を超えた体力を消耗し、

ヘロヘロになってしまう。

つまり、これが斬り合いなら、次の瞬間にお陀仏なのは僕。

 

次に、

これは事実に近い話としての記述だけど、

[日本三大仇討ち]の一つとして有名な[鍵屋の辻の決闘]

その[18人斬り][36人斬り]で有名な荒木又右衛門の話。

 

彼が学んだ流派は諸説あり、

父親からは中条流、叔父からは神道流等と書物によってマチマチ。

が、ここでは柳生十兵衛から学んだとされる新陰流の剣豪(達人)説を記載する。

その荒木又右衛門が伊賀上野の鍵屋の辻周辺で決闘の助太刀をした話。

 

まず彼は、一刀流の達人と言われている河合甚左衛門を出合い頭に斬った後、

敵方の武者に木刀で後ろから腰を殴られて横転し、

這いずり回って、やっとの事で2人目を斬り、

そして、3人目と立ち会っている最中、

彼が所有している名刀・強刀といわれる[来金道(らいかねみち)]が折れ曲がり、

あげくに、ポキン!と折れてしまったとの事。

まったくもって、18人斬りや36人斬りどころではない。

実際、彼が斬ったのは、やはり[2人]だったとの事。

でも、使ったその体力は、オリンピック選手以上だったと思う!

 

事実、僕は齢54歳になりはしたが、

[脳みそ]はいざ知らず、[体力]なら、その辺の若者よりもある!と豪語するこの僕だけど、

日本刀で連続100回の素振りだけで[身体がヘロヘロになって大変]!

ましてや、刀を振り回しての殺し合いなら

いかに剣豪と言えども、また、斬り合いの場数を踏んでいたとしても、

相当な体力がなければ何人もの人を斬ることなんてできっこないはず!

だから、荒木又右衛門のこの記述は、素直に納得できる!

 

が、そういう意味では、

信じられないが、事実としての文献が多く残されている剣豪がいる。

 

その名は、徳川将軍家剣術指南役

新陰流の柳生宗矩

 

若い頃の話として、

彼は、大阪の陣で、徳川秀忠を守る為、

迫りくる豊臣方の武者7人を瞬く間に斬った!と記録されている。

伝記等の書物により、10人や16人などの人数の多寡はあるが、

一番少ない人数で[7名]と記録されているので、

実際、7人だったんだろうと思う。

 

[サスガ! 剣聖]

 

[剣豪]も[剣聖]になると違うんですね!

 

とは言え、

我が国には、数多くの剣術流派があり、

剣豪たちの数多くの逸話も多いけれど、

何十人も斬ったと伝えられている剣豪も、

最後は、息切れし、集団で惨殺されたなど記録も多く、

どんなに強くても、結局は、体力勝負なんだなぁ〜と思う。

 

まあ、いつの時代でも

強い人は、強いんだけどね!

 

では、寝ることとする!

三国志 Part 5 <魏書:司馬懿>

  • 2016.09.23 Friday
  • 16:07

歴史ものを書くのには、色々と調べる時間がかかり、

なかなか、エイヤ!と書けないので、[三国志]のアップが遅れてしまいました!

早速ですが、前回[三国志 Part 4<魏書:曹操>]アナウンスした通り、

[司馬懿仲達]について書いていきますね!

 

さて、[三国志]ファンからすれば、[曹操]の次に嫌われているのが[司馬懿仲達]。

が、僕個人的には5番目に好きな人物が、この[司馬懿仲達]なのです。

 

[三国志]に登場している人物の性格や実績、また生き方の議論等を一切考えずに、

ただ単に[好きか・嫌いか]だけで考えた場合、僕が好きな人物は、

1:曹操

2:陸遜

3:郭嘉

4:曹丕

5:司馬懿(仲達)

6:呂蒙

7:諸葛亮(孔明)、、、などなどです。

(※あくまでも、[三国志演義]ではなく、史実の[三国志]に基づいてます)

 

だから、[三国志演義ファン]からすれば、「かなり変わっている!」と思われる。

が、僕的には、[司馬懿仲達] 彼の打った手の一つ一つは、

何一つ、僕にはできないけれど、現代社会に通じるところが多分にあり、

すべてにおいて、身の施しと言うか、出退の対処方法が[見事!]と言うほかない!

 

さて、彼の経歴や生涯は、ウキペディアや歴史書を読んで頂けると解ると思うので、

ここで詳しくは書かないけれども、彼は[若い頃から、ただモノではない!]人物だったらしい!

どの様にただモノではない!は、記述書やネットに書いてあるので閲覧宜しくです!

 

では、話は変わるが、

[三国志演義]では、[諸葛亮孔明]と6回戦い、その度に痛い目にあわされたことになっているけど、

実際に戦ったのは、たった2回だけ。

 

第1回目は、231年の[蜀国:第三次北伐]

魏国の大司馬である[曹真]が病没したため、[司馬懿]が[対蜀国司令部の総司令官]に就任した際の戦いである。

[諸葛亮]は、当時、蜀国では次を担う将軍としての魏延将軍や王平将軍を率いて[祁山(ぎざん)]に進出してきた。

が、しかし、[司馬懿]は持久戦を選択し、あえて戦おうとはしなかった。

すると、歴戦の軍師であった[賈栩]や[魏平]らが「天下の笑いものになる!」と彼に詰め寄る。

 

ここで彼のスゴイところなんだけれども、

彼の一存で「出撃命令」で戦えたにも関わらず、わざわざ皇帝へ使者を送り、

「自分自身としては、各将軍へ持久戦を通達しているのですが、

[賈栩]や[魏平]と[張郊]らを含め、全将軍の皆が、出撃すべし!と詰め寄るので、陛下のご判断を仰ぎたく」と

皇帝の判断を仰ぐ。

魏国皇帝は、[出撃!]との命令を下し、、、、、

結果は、三千の兵を失うという[ひどい損害]を被り、大敗北で終焉する。

 

[司馬懿]としては、彼自身は[持久戦]を提案し、

それを皇帝及び傘下の有力将軍に避けられての[出撃での大敗北]

彼は、この負けた戦いでの責任は何一つ負っていない。

 

が、この負けた戦いで[司馬懿]が得たモノは、とてつもなく大きい!

それは、彼の政敵たちの終焉である。

例えば、[賈栩]は、この戦いの後、自らの建策の誤りを恥じたのであろうが、政界から離れ77歳で病没。

[司馬懿]の一番の政敵となる[張郊(ちょうこう)]は、この戦争で敵国の兵士たちに射殺されてしまった。

[司馬懿]にとって、曹操以来の歴戦の将軍である[張郊の死]ほど有難かったことはないだろう。

[十八史略]の一節には、[司馬懿]は[張郊の死]に際し、一人、部屋の中で、踊りながら喜んだ!とある。

事実、[張郊の死]以降の魏国は、ある面、[司馬懿]の独壇場になっているからである。

 

従って、結果的には、

彼の政敵と言える武将、およびその候補である武将のほとんどを、この戦いで消すことができた。

つまり、彼のこの戦いの目的は[諸葛亮との戦いではなかった!]と言う事。

僕には絶対にできないが、こんな思考を持つ人物は、本当にスゴイ!

 

また、彼は、この戦いだけではなく、

彼が曹操に仕えた後、特に曹操の息子の曹丕の時代では、

彼が参加した戦いのほとんどが、勝敗は別として、その様な結末で終わっている。

その様な結末とは、戦いの度に、彼の政敵が消えていっているのだ!。

これは見事と言うしかない!

(ただ、曹操が健在の時は、幾度か同じ様な策略を用いたが、すべて曹操にたしなめられている)

 

2回目は、234年の[蜀国:第五次北伐]

[諸葛亮]が斜谷(都市)から武功(都市)に進出してきた。

この時、[諸葛亮]は、彼が発明した食料運搬用具である[木牛]の改良版である[流馬]という器具を

輸送器具としてテストも含め、兵站補給の確保を試みている。

 

魏国の時の皇帝である[曹叡(曹操の孫)]は、

前回の戦例と蜀国の問題点は兵站補給にある!と認識していたので、

あらかじめ、[司馬懿]には、「持久戦で対峙せよ!]と命じていた。

故に、五丈原に布陣した[諸葛亮]は、度々、戦いを挑んできたが、

彼は守ることに徹し、自らは、決して自らは戦おうとしなかった。

 

[諸葛亮]は、「それでも男か!」と、周辺に[司馬懿]への侮蔑を言いふらし、

[司馬懿]が怒って出馬することを望んだが、[司馬懿]は耐えた。

が、前回同様、彼傘下の将軍は、またもや[戦うべし!]の提案をしてきた。

[司馬懿]は、この提案を避ける為、またもや皇帝へ使者を出した。

皇帝も前回で懲りているので、[戦うべからず!]を指示。

皇帝指示を各将軍に通達し、持久戦に持ち込む[司馬懿]。

 

実は、彼の戦局は[諸葛亮]ではなく、魏国の首都にあったのだ。

なぜなら、この戦いに出る前から[決定事項]であったと思われるのは、

彼が[諸葛亮]との戦いにでている間に、[反司馬懿派]が皇帝に取り入って[司馬懿排除]を行うであろうこと。

それが誰と誰であるか?を、戦地から確認していること。

次に、率いてきた将軍の中で、彼の政敵に成りえる人物がいないこと。

次に、彼が[諸葛亮]の命が長くない事を知っていたこと。

そして、この戦いで、彼の目論見通りに[諸葛亮]は他界するのだが、

またしても、[司馬懿]は、[諸葛亮]を使って自分の立場を安泰にしているのだ!

 

死せる孔明、生ける仲達を走らす!

 

この言葉は、[司馬懿]自ら考えて、魏国を中心に、蜀国、呉国にも言いふらしたのである!

では、なぜ?

[司馬懿]は、自らがこの言葉を「言いふらしたのか?」、「言いふらす必要があったのか?」

 

当時の魏国の宮廷内では、前皇帝[曹丕]の信任厚い[司馬懿]の専横に対して

彼の排除を皇帝に進言する臣下が多く、

いかに現皇帝[曹叡(曹操の孫)]が、父である前皇帝[曹丕(曹操の息子)]の言いつけ通り、

「どんな懺悔があっても[司馬懿]を疑ってはならない!」の言葉を遵守していたとしても

[司馬懿]個人は、安心できなかったのだろう。

 

故に、[諸葛亮]が[北伐]と称して攻めてきたのは、彼にとって格好の材料だったのである。

そして、[司馬懿]は、、[諸葛亮]との戦いをフル活用し、

自身排除で、誰と誰が繋がっており、誰が動いて、誰が隠れているのか?を調べてた後、

自ら[死せる孔明、生ける仲達を走らす!]の噂を広め、

自分は臆病物である!」「諸葛亮孔明にコテンバンに負けた!」との印象をつけた。

 

すると、がぜん[司馬懿]排除を目論む人間は、確固たる[司馬懿への敵対心]に[スキ]が生じ、

結局、その[心のスキ]を突いた[司馬懿]に、魏国重臣達は[彼の立場]を黙認せざる得なくなったのである。

[司馬懿]個人としては、これでようやく安心したとみえる。

 

が、その14年後、[魏国皇帝]は、彼の孫である[司馬炎]によって[皇帝の座]を禅定し、滅ぶのである。

世の史書などでは、[司馬懿]が魏国を簒奪する基礎を築いた!と記載しているが、

彼には、決して、魏国を簒奪する気持ちは無かったと推察する。

なぜなら、彼が亡くなる際、彼が仕えた[曹操]とまったく同じ言葉を残している。

 

「簒奪者にならなくて良かった!」

 

[司馬懿仲達]

彼は、[諸葛亮]同様に、国を簒奪するなんて一切、考えてなかった。

ただ、彼が、[諸葛亮]と違うところは、彼は[魏国での自身の立場の安泰に執着した]。

が故に、結果的にそうなってしまったのでは?と考えざる得ない。

 

日本では、一般的に、[司馬懿]と[徳川家康]は酷似していると言うが、

僕的には、[豊臣秀吉] と似ていると思えてならない。

なぜなら、性格の表と裏はあるが、酷似した手法を用いて情報を得る環境を設定し、

後に、[自身の立場安泰を考えた末の選択]をしているからである。

三国志 Part 4 <魏書:曹操>

  • 2014.10.06 Monday
  • 14:26
中国4,000年の歴史というけれど、
曹操ほど悪者になっている人物も珍しいと思う。
同じ様な悪者をあえて書くなら、秦国を創始した始皇帝、明国創始者である朱元璋(洪武帝)の2名ぐらいしか浮かばない。
その大悪党・曹操について、生まれや育ちなどを今更、ここで書こうとは思わないが、彼の性格を現す書見を幾つか書いてみることにする。

話はちょっとズレるが、正史三国志では、後漢王朝の後継国として魏国を正統後継国としているのに対し、小説三国志演義では民間伝承に従って蜀国を後漢王朝の正統後継国としているところに、劉備や諸葛亮を善玉とし、曹操を悪玉、孫権を中立に書く必要があったと思う。

その曹操も三国志演義では、許劭(きょしょう)が曹操を評した「君は治世の能臣、乱世の姦雄ならん」、この言葉は有名だ。
ただ、この言葉は数百年も後に孫盛(そんせい)という人物が南北朝時代宋国武帝記「異同雑語」に記載した言葉で、曹操が生きた時代からは遠く離れている。

まぁ、言っている事は同じような言葉だが、曹操を評した言葉として、曹操が生きた時代に近い書物から引用してみると、、、
・「世説新語」橋玄(きょうげん):「君は、誠に乱世の英雄にして、治世の姦賊だ」
・「後漢書」許劭(きょしょう):「君は、清平の世の姦賊、乱世の英雄ならん」
 ※同じ許劭の言葉だが、後漢書に記載されている方が正しいと思われる。

どちらが実際の曹操に対する批評なのか?はわからないけれど、「姦賊」と言われているところをみると、鬼平犯科帳に出てくる「早働きをする凶悪な盗賊」をイメージしてしまう。
つまり、曹操という人物は、世の中の秩序や法律を叩き壊し、新たに構築することをやりかねない人物、、性格は違うが日本で言う織田信長の発想をイメージしてしまう。

次に、曹操の幼少の名は「阿瞞(あまん)」だったと伝えられているが、中国で「瞞(まん)」は「騙す」との意味なので「嘘つき小僧と呼ばれていた曹操」という意味合いの「曹瞞伝(そうまんでん)」と言う伝記には曹操の性格を現すものとして下記の様に書いている。
「曹操の人となりは軽はずみで威厳がなく、音楽を好み、芸人を左右に侍らせ、常に日中から夜に至るまで楽しんだ。衣服は軽い絹を用い、小さな皮袋をつけてハンカチや細かい物を入れていた。時には帽子をかぶって賓客と会う。人と談論をする時はいつも冗談をいい、思っていることを隠さずに話した。喜んで大笑いした時は頭を杯や椀の中に突っ込み、頭巾を膳の肴で汚してしまった」とある。

三国志演義に書かれた冷酷無比で威厳ある曹操のイメージとは、正反対の性格だ。
まぁ、色んな面で、いつも悪者になる曹操だが、
負けた回数は数え切れなく、勝った回数は片手でも余り、それ以外の能力は主役である三国志演義ですら何も書かれていない劉備。
武芸に秀で、類稀な外交感覚で曹操とわたり合った孫権。
に比べ、曹操は、兵法孫子を通読し、その孫子をベースに独自の体験を加えた兵書を作成した兵法者、と思えば、数多くの詩文を作り、六朝文学の礎を築いた文学者。はたまた、農耕方法に改善を加えた農学者。武芸にも秀でており、後漢王朝に至っては、偉大なる政治家として君臨した英傑。
こんな多様な人間性を持った人物は、中国史上でも珍しいと思う。

220年1月
66歳で亡くなった曹操は、
「天下はなお安定していないから、古式に則って葬儀を営む必要も、喪に服する必要もない。兵を率いて駐屯している者は部署を離れず、官吏は各々の職を奉じているがよい。遺体を包むには平服を用い、金銀珍宝を墓中に収めてはならぬ」と言い残したという。
息子が凡庸で諸葛亮に頼むしかなかった劉備や晩年、愛妾にうつつを抜かし後継者問題で多くの名臣を惨殺した孫権と比べると、後継者争いが無かったとは言えないが能力溢れる後継者を定め、死ぬ間際にいくつもの手を打って国を安定させた上に上記の遺言を残した曹操とは、なんと素晴らしい指導者だったんだろう!と感心してしまう。

正史三国志を書いた陳壽は、
「曹操は古人の法術と奇策を兼ね備え、策略の限りを尽くして天下を鞭撻した。
適材適所に人を用い、自分の好悪の感情を抑えて冷静な計算に従い、その人の旧悪を問題にしなかった。天下の役割を担うに至ったのは、明晰な機略が最も優れていたからである。曹操こそは非常の人物、時代を超えた英傑というべきか!」と評している。

史実の曹操は、三国志演義の悪役・曹操とは違い、
時代を超えた英傑だったんだろう。

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